上記でも参考に挙げたURL内にもあるように、公開当時だけでも世界的には五本ものドラキュラ(=要はヴラドのマイナスイメージ)を扱った映画が作られていたというのも、本作が作られた背景にあることももちろん注意すべきかと思う。が、正直、この年の前年くらいにはあえてヴラドを悪い支配者というイメージで描いてチャウチェスクの政権に対してあてこすった舞台とかがなんならルーマニア国内であったくらいなので(『A Treia țeapă』(1978))、ヴラドの悪イメージを煽るのにチャウチェスクの熱狂が原因してたところあるのではないかとはちょっと思うけれど、この辺の因果関係はどうなってるのだろうなと頭の端で思いはした。起点自体は昔の周辺諸国のヴラドにまつわる伝説であり、それを拾ったブラム・ストーカーの『ドラキュラ』であり、その『ドラキュラ』を受容した人々のルーマニアへの興味にあるのだろうとは思うけれど、実際のチャウチェスク時代のこのごたごたの部分とかは割とお互いに噛みつき合って成り立ってるところあったんではないかと思った。余談である。