Jeffrey

白い風船のJeffreyのレビュー・感想・評価

白い風船(1995年製作の映画)
4.0
「白い風船」

〜最初に一言、奇跡のような大傑作。キアロスタミの「友だちのうちはどこ?」マジディの「運動靴と赤い金魚」とパナヒの「白い風船」…この子供3作品は私の中では最大のイラン映画の傑作だと思う。この作品が未だにVHSのまま埋もれているのが信じ難い。即刻、円盤化するべき作品だ〜

こちらの作品はYouTubeで解説しております。
https://youtu.be/FFdQkEOos1o


冒頭、イランで春の訪れを祝う新年の日、3月21日。7歳の少女は新年のお祝いのために金魚を欲しがる。紙幣を手に1人で街へ、ケーキ屋、金魚屋、風船売りの避難民の少年、兄貴、クリーニング屋の店主、老婆、蛇使い。今、子供たちの冒険が始まる…本作はジャファール・パナヒが1995年に監督したイラン映画の最高傑作の1つで、いまだにVHSしか無く、円盤化されてないのに驚く。一刻も早くBD等で発売するべき最高傑作である。この度VHSにて再鑑賞したが傑作中の傑作。なんといったって脚本を担当したのはアッバス・キアロスタミで、金魚が欲しくてたまらない少女を描いたなんてことないシンプルなストーリーにもかかわらず泣かせてくれるほどイラン的な感動があり本当に素晴らしい。本作はカンヌ国際映画祭 でカメラ・ドール(新人監督賞)を始め、CICAE芸術貢献賞、国際批評家連盟賞、東京国際映画祭、サンパウロ、ニューヨークと上を総なめにしている。今思えばパナヒも「チャドルと生きる」で金獅子賞、「人生タクシー」で金熊賞と来て、残すはカンヌのパルムドール位だろう。仮に取ったとして、すべて世界3大映画祭で最高賞で受賞している監督は今のところ3人しかおらず、4人目になるリーチのかかった監督だ。

本作の冒頭は大通りを行き交う車の音が被る中、商店街の人々の会話に混じって、もうじき訪れる新年を祝うタンバリンの鈴の音が聞こえる。カメラは市場にある床屋の前を捉え、タンバリンをを打ち鳴らしながら赤と黒の衣装を着た2人の男が店に入っていくのをとらえる。続いて、ラジオの女の声が聞こえる。リスナーの皆さん、良い1日を。現在5時7分。ちょうど散髪を終えたおしゃれな青年が店を出る。ラジオの声は男性変わる。あと1時間28分と30秒で新年です。カメラは床屋の前の通りを捉え、そこは通行人で賑わっている。すると向こうから軍用ジープがやってきて止まり、1人の若い兵士が助手席から降りてくる。兵士が脇の小道に去っていくと、すれ違いに色とりどりのたくさんの風船のついた棒を持った風船売りの少年が商店街に出てくる。

カットは変わり、小さな子供連れの父親が子供にその風船を買ってやる。その脇を、頭の上に各種のご馳走を担いだ男たちが通り過ぎる。そこに買い物袋を両手に下げた女の子が現れ、何かを探すような目つきで周囲を見回す。近くの店を覗いてみたら、その少女は風船売りの少年に何かを尋ねる。少年は何か答えながら、大通りの方を指差す。少女はその方向に歩いていく。赤と黒の衣装を着た2人組がタンバリンを打ち鳴らす脇を、彼女は左右を見回しながら歩いていく。カメラが大通りの宝飾店の前を捉える。やがてその女(少女の母親)は市場を練り歩く2人組と別れ、車の行き交う大通りに出る。母親は青い風船を持った娘のラジェを見つける。ラジェは道を指差して何か答える。彼女は母親の後についていく。

続いて、路地の場面。やがて2人は男たちが輪になって何かを見物しているところに出くわす。道がふさがっている。蛇使いの男が拡声器で、相棒の男とやりとりするのが聞こえる。ザーラ(母親の名前)は見物人を通り抜けようとする。男たちの後ろで長いあごひげの男が地面に座ってタバコを吸っているのをショットする。母親は建物の通路に入っていき、それを見ていた娘はこっそり蛇使いを見ようとするのだった…さて、物語はイランで春の訪れを祝う新年の日、3月21日。7歳の少女、ラジェは、新年のお祝いのために、どうしても金魚が欲しいと思う。昔から、新年のお祝いには金魚と決まっているのだ。兄の助けもあって、母もラジェに負け、待ち合わせている最後のお金をくれる。ラジェは金魚を買おうと家から駆け出していく。

見てはいけないと言われていた蛇使いのショーに驚いて逃げたりしたり、ケーキ屋さんで寄り道をしているうちにラジェはお金をなくしてしまう。絶対に欲しい白くて太った花嫁さんみたいな金魚を買うために懸命なお金探しが始まる。その中でラジェは思いがけない出会いや、素晴らしい冒険を体験していく…と簡単に説明するとこんな感じで、新年を目の前に控え賑わう街中をまだあどけなさが残る少女が駆け抜けていき、小さく大事そうに抱えた金魚鉢の中には1枚の紙幣が入っており、それを店先で見かけたきれいな金魚を買うためのやっとの思いで母親からもらった大切なお金であって、それを店に駆け込むと金魚鉢の中のお金がなくなっていて、少女は今にも泣き出しそうになりながらも、店の主人に目当ての金魚を取り置きしておいてくれと頼み、落とした金を探しに再び来た道の中に戻ると言う単純明快な話なのだが、大人と子供の触れ合いを描かれている。


やはり、80年代後半から突如彗星ように現れたイラン映画の新しい波は、瞬く間に世界中の映画祭で注目を浴び、主要な映画賞を独占した記念すべき映画である。ストーリーを見ると単純極まりない映画の中にもあふれる感情を忘れずに描いており、やはりハリウッド映画なんかよりもこういった細やかな映画の方が断然にいいなと毎度思わされてしまう。イラン映画で特に子供の作品はハラハラドキドキをしながら彼らの行動を終始見守ってあげたいといつも思わされる。子供の頃こういったのを自分の時代にもあったなぁなどと思いつつ少女の一挙手一投足を見守ってしまう。やっぱり子供の頃って何か助けを求めようとして見知らぬ大人に声をかけると言うのはとんでもなく怖いことであり勇気がいることだと思うのだが、イランの子供たちは結構、物事をきっちり分別をつけ、言っているので偉いなと思う。本作で金魚屋の主人との会話で、私が持っていたお金は赤いやつときっちりと伝えていたし、蛇使いのおじさんたちにも金魚を飼うために母親からもらったお金だからきっちり返してと言うし。

これは映画的と言われればおしまいだが、やはりイランの映画の中に登場する大人と言うのは、基本子供たちの会話に耳を傾けようとしない。最初はきっちり聞くのだが、大人同士の会話に夢中になってしまい、忘れてしまうのだ。そういった時に子供が自分の話に全く耳を貸そうとしない大人たちに絶望し泣きたいような気持ちになるのがこの映画から非常に伝わる。まさにこの映画には誰もが子供時代に感じる切実な思いや、感情が汲み取られており、タイトルの「白い風船」に込められた意味を知るときに素晴らしい映画を見たと思うだろう。やはり監督自身数本のドキュメンタリーを撮っている分、この作品どこかしらそういった感覚がある。どうやら撮影中にキアロスタミに語ったアイディアが今回の映画へと発展したそうで、テヘランで開かれたファジル国際映画祭で新人監督賞を受賞した。その流れでカンヌ映画祭でも新人賞を受賞し、東京ではヤングシネマ部門でのグランプリにあたるゴールド賞に輝いている。確かゴダールやケン・ローチの作品が巨大な野外劇場で上映される中この作品に対して数千人の観客たちから喝采を浴びていたと言うエピソードでもあった様な…。



いゃ〜、たかが金魚を買いに出かけた少女の大冒険が描写しただけなのになぜここまで心温まる奇跡の映画が作れるのだろうかと、これがイラン映画の強みの1つだなとつくづく感じた。「友だちうちはどこ?」のキアロスタミの脚本は最高で、「オリーブの林を抜けて」の助監督をしていたパナヒが監督して、「友だちのうちはどこ?」の少女編とも言うべきキュートなメルヘン映画であり、本当にソフト化して欲しいイラン映画だ。この作品もイラン独特の絶対的地位の高い父親があーだこうだ言う件が初っ端から始まる。シャンプーを買ってこい、お湯がぬるいぞ、温めろなど。やっとのわがままを母親に聞いてもらい、お札をもらって金魚屋に行くまでに、蛇使いのオジサンに半ば虐められるかのようにお金を奪われて、お金を返してと言う下りは可哀想すぎる。この映画は、映画の3分の2は同じ場所(1カ所を集中的に)で事柄が発生する。例えば金魚屋の中と外でのやりとり、お金を落としてしまったお店の前でのやりとり、クリーニング屋のお店の中と外でのやりとりと蛇使いの裏路地でのやりとりである。それと自分が欲しがっていた太った金魚が痩せているとクレームを金魚屋さんに言い、少女に店主が言う一言がなんともユニークだった。それは真上から見ているからで、横から見ればふっくらしているよと言うのだ。ガラス鉢の見方によってはそう見えて、少女がその通りに見ると彼女の顔に笑顔が戻ってくる。なんとも可愛らしくリアリティのあるー場面だった。


この映画のラストの唐突に終わるあんな終わり方あるかよ…と言うほどの凄い終わり方をする。これには参ってしまう。余談だが、この作品はパナヒ監督のアイデアをもとにキアロスタミがカセットテープレコーダーに向かって喋りながら膨らませた物語をパナヒ監督が起こし、それを再びキアロスタミがチェックすると言う手順を踏んでシナリオが完成したらしい。これは言うまでもなく、イラン映画お決まりの出演者はほとんどの素人であり、自然な表情や感情を引き出し演出を巧みに作った監督の力量をすごい一作。登場人物で、少しばかりアジア系のビジュアルをしている身長の高い少年が出てくるのだが、イラン映画を見てると結構同じイラン人でも顔つきが違う(トルコ人だったり)がいるので様々な人種のるつぼ映画を見ているかもな感覚になる。調べてみると、彼はアフガンの避難民で、一人ぼっちで生きている少年だと言うことで、監督自身も最初と最後に出てくる風船売りの少年が非常に気にいっているといった。

この映画の画期的なところって、映画のタイトルである。白い風船と言うのは決して主人公である少女が手に持って街中をかけまわると言うのではなく、避難民の少年が風船売りと言うことで、彼が特に大いに活躍する場面もなければ、ほとんどの画面に出てくるわけでもない。そういった中でこのカメラはその風船売りの避難民の少年をストップモーションで捉え映画を閉じるのだが、この印象の破壊力は凄まじいものがある。溝に落ちた紙幣をすくいあげる最後のシークエンスでも、彼が登場するが、結局彼がその紙幣をとってあげるわけでもなく(あくまでも彼が差し出すのは木の棒である。それは風船をくくりつけているものだ)、その紙幣を取るのは〇〇である(ネタバレにならないように誰が取ったかは伏せる)。そこから兄妹が走り去ってからも、風船売りの少年が現場にしゃがみ込んでいる姿は本当に印象的である。

そもそもどこの世界に溝に落ちた紙幣を取るのに生き生きと必死に、夢中になり成功を祈る子供たちがいるだろうか。溝に紙幣が落ちたら日本ではお巡りさんに頼んでとってもらうこれで終わりだ。しかし、この映画ではそうたやすくお金を溝から取ることができないのだ。それは映画的なプロットが邪魔するからだろうか、いやそんな事のは違う。イラン文化の独特なものが垣間見れるものだ。そもそも監督は何故子供と大人の関係性の和解を描くものではなく、結局最後に現れる風船売りの少年をキーパーソンとして重要な立ち位置にさせたのだろうか、ずっと悩んでいた。結局子供が子供を助けると言う映画の題材に何かしらのメッセージがあるのだろうかとずっと悩んでいた。ここで映画を繰り返し見るとわかったことがある。確かに、妹のお兄さんは風船売りから木の棒を奪おうとするので喧嘩になるが、すぐに状況を呑み込んだ風船売りの少年は助けてあげようとする。そして子供の話を聞こうとしない大人とは対比的で、彼はすぐにこの兄妹の力になろうとする。ここが最大のポイントではないだろうかこの作品の言いたいことの…。

さらに、少なくてもこの作品に出てくる大人たちと言うのは子供に自分のことばかり話している。しかしこの避難民の風船を売ってる少年は自分の生い立ちや、意見をほとんど言わない…というか言ってなかったと思う。そうするとこのクライマックスのお金を取るスペクタクルなシークエンスと言うのは、その避難民の子供がいかに日々を孤独で生きているか、要するに何が言いたいかと言うと、1人で風船を売っている日常から離れ、年齢は離れてはいるが、子供の心を取り戻してその兄妹達と懸命にお金を取るのに夢中になり子供心を取り返したと言うことに気づいた。この兄妹たちにとっては災難なことかもしれないが、この災難は風船の少年にとっては非常に居心地が良く希望に満ち溢れた事件だったのかもしれない。だがその居心地の良さは唐突に〇〇される……。この映画の楽しみ方というか本質を知るとものすごい映画だなとまず感じる。

それはあたかもいなかったかのような風船売りの少年の待遇の兄妹の仕方が何とも言えないのである。彼のおかげでお金が手に入ったが、彼のことを置き去りにしさっさと家に帰ってしまうと言う、フレームの中から兄いもうとがいなくなった瞬間フレーム内に残るのはたった1人、避難民の風船売りの少年だけである。このショットが何を意味するか、それは帰る家も、新年を一緒に祝う家族もいない、ただそれだけを強調するラストショット…私にはとてつもなく残酷で衝撃的でショックだった。虚しくも1つ売れ残った白い風船が我々の瞼の裏に焼き付くだろう。これが本作の本質であり根本的なタイトルの意味合いである。なんとも残酷なんだろうか、メルヘンチックな映画かと思いきや残酷極まりない映画なのだ。これが風船売りの少年の現実であり、彼の正体なのである。そうするとイランと言う神々の国では、宗教と言うものがどうしても絡みやすいが、ここにきて、少女の目線で描かれていた作風がほぼ終盤になるとを取って変わる。避難民の風船を売って生活をする少年は、お礼も言わないその兄妹たちがそそくさ家に帰るのを見守るように見つめながら静止画になるのを私は"神の目線"と思って思わざるを得ない…

だから冒頭に一瞬出てきたその少年と終盤にほんの少し登場したその少年が現れた瞬間に、その兄妹の困難な出来事はあっという間に解決するのである。それは神の力なのだ。よって風船を売っている少年=神の目線で描かれていると私はそう感じた。話は変わるが、確かキアロスタミが自分の作品「オリーブの林を抜けて」でパナヒを助監督に選んだ理由が、自然に自分を売り込んだからだと言っていたが、過去25年間の間で初めて、他の人間とチームを組んで仕事する事を楽しいと思ったと後に語っていた。まさしく彼が言うように、パナヒとの仕事は楽しかったんだろうなと思う。どうやら、最初白い風船の意味は女の子が選んだまるまる太った白い金魚=風船のようと言う意味だったらしかったが、最終的にはあの避難民の少年を意味するようになったらしい。そういえばこの映画は父親の声はでるが、姿かたちが一切描写されないのが少し気になった。あれは何か意図的なものがあったのだろうか…。言葉の内容からするとすごい傲慢的な感じがしたが、家族が恐れている感じは特になかった。それと少年が顔に傷をつけているのも気になる。

その他に印象的だったのがやはりものすごく長く撮影された蛇使いのシーンだ。なんとなく不思議な感覚で吸い込まれるような魅力があったのだが、その後に金魚屋で知り合った老婆=マダムが一緒にお札を探す旅に出るのだが、そこでその老婆が少女にあなたはこういうところには来てはいけないと言う件があるのだが、要するに普段行ってはいけない場所に子供と言うのは1人になると行きたくなるものである。彼女は後に私が見てはいけないものをどんなものなのか見たかったと言っているように禁じられた事は返ってそれを見たくなると言う好奇心が強くなるのだ。それを見る勇気が少女にはあったと言いたげなあのー場面が非常に印象的だ。後に監督がインタビューで答えているように、小さい頃父親に映画館に行くなと強く禁じられていたが、隠れて行ったそうである。私が見てはいけないものとはどんなものなのか見てみたかったと言っているから、この少女に自分の人生(幼少期)を反映させたんだと思う。長々とレビューしたが、この作品はVHSしかなく多くの人が見れる環境にはないと思うがぜひ見てほしい大傑作である。
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