【しまじろう映画研究2:喧嘩するのは悪いこと?】
平林勇監督のしまじろう映画研究2本目は、これまた児童物語の定番《絵本の中に吸い込まれる系》であります。このジャンルで言えば、昨年『映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ』が大人にも大ウケなカルト映画になりましたが果たして...
子ども映画に求められることはなんだろうか?それは柔軟な発想だと感じている。《シカクいアタマをマルくする》と日能研は語っているが、子ども映画では大人のシカクい頭が生み出すクリシェを否定することで面白さを出す、そこに監督の業がかかっているといっても過言ではない。『映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ』では、本のページの破れから他のページに移動するというギミックを通じて《読書》とは何なのかという本質を突いていたと言えるが、その原点とも言えるのが本作である。本作では、幼少期のしまじろうが、絵本の住人をイマジナリーフレンドに見立て、落書きをすることで対話する演出が施されている。通常、本に落書きはタブーだとされているが、幼児の想像力を養うためには落書きも許容されるべきなのではといった考察が映画の中でされるのです。
本作は、大人の常識に対して否定することで親の視野を広げる哲学的な内容となっている。開始早々、絵本の世界では抗争が勃発している。王様とお姫様は、喧嘩についての是非を議論するのだ。通常であれば、喧嘩することは悪だとなってしまうのですが、お姫様は「喧嘩もいいじゃない。後で仲直りすれば万事OKだ」という説を唱える。確かに、喧嘩はネガティブなイメージがあるが、喧嘩とは人の心の奥をさらけ出すもの。心の内と内を見せ合い、相互に妥協点を見出し、着地することで仲は深まるのです。大人の世界であっても、喧嘩を恐れて当たり障りのないことを言い合うよりも、喧嘩しあって妥協点を見出していくほうが良い仕事は生まれる。それこそ喧嘩がいけないとなるのは、戦争のように大勢の死傷者を出してしまうケースが念頭にあるからだろう。非常に難しい話であるが、ミクロな視点では喧嘩は推奨されるが、マクロな視点での喧嘩は問題となる。本作は、ミクロな視点での喧嘩に着目し、喧嘩=悪という概念を取り払うことに注力していると言えよう。
さて、本の世界に吸い込まれたしまじろうたちは、かつて自分たちが落書きした存在と対峙したり、ページの狭間から他の世界に行ったり、本を読む立場から本を読まれる立場になるといったシュールな世界を冒険することで、己の内なる世界と対峙していく。そして、絵本の住人は絵本から出ることは許されないという掟を守りつつ、自分の過去を思い出という名の宝石にしていくのだ。
子ども映画ナメるでなかれ!非常に奥深い世界を味わうことができる一本である。