レインウォッチャー

ジュリエッタのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

ジュリエッタ(2016年製作の映画)
3.5
かつて港があった。

住み慣れた街を離れ、恋人と老後を過ごすことに決めたジュリエッタ。荷造りを急ぐが、ふとしたことで12年音信不通だった実娘の消息を知る。彼女は動揺し、出発を急遽中止。娘への想いと自らの半生を振り返り始める。

都会的なファッションやメイク(※1)に、多くの蔵書を抱えていたり学校で(非常勤ながら)古典文学を教えたり、と知的な印象もあるジュリエッタ。ただどうも若い頃から恋愛体質的な転びやすさと神経の細い思いつめやすさを併せ持っていて、それが娘との関係にも繋がっている。湿ったままじりじりと小さく燃え続ける薪木のような情念とでもいおうか、モーパッサンの『女の一生』を彷彿とさせるような「しくじり人生」なのである。

劇中では、彼女が学生たちに『オデュッセイア』の中の女神カリュプソーについて教えるシーンがある。オデュッセウスを深く愛し、不老不死を与えて共に暮らそうと願うも、彼が海へと旅立つのを止められなかった美しきカリュプソー(※1)。このエピソードは、そのままジュリエッタと漁師だった元夫(娘の父)との運命的かつ悲劇的な顛末に当てはめることができる。

では今作は単にある女の不幸自慢風メロドラマなのか?といえば、そうとも限らない。見えてくるのは、ある種のシスターフッドものともいえる、女性たちの多層的な連帯の形だ。
関わる男たちは、彼女らの人生に何かしらの足跡やきっかけは残していくものの、今作においては背景のような印象。彼らへの愛・憎はいずれもほどほどに、あくまでも描かれるのはその上で生きる女性たちの立体的な生の交錯であると思う。

女神という役割ゆえ島に縛られ、海(=外の世界)へ着いてゆくことができなかったカリュプソーの姿は、ジュリエッタ本人だけではなく、晩年は病で床に臥せっていた母(父の興味は徐々に外へ)や、鬱に沈むジュリエッタを支えるために青春時代を半ば捧げたような娘とも重なってくる。
そして、家族の外に目をやっても、人生のハブ(継ぎ目)を担うのは常に女だ。元夫や娘の重要な関係者はみな女性で、誰もがジュリエッタと何らかの傷や幸福を共有する存在となる。
ジュリエッタと幼い娘が、老いた母を支えるようにして三人で庭へ出る場面が印象的だ。この三代に渡る共同作業は後になってまた別の形でリプライズされ、ボロボロに破片を撒き散らしながらも転がって行く車輪を思わせる。

しかし、彼女たちの関係はいつも「ズッ友だよ!」なわけではないところが面白いし、このいわゆる男の友情(オン・オフで説明できがち)とはまったく立体性が異なる絡み合いを見つめる深度こそが、何より今作の旨味であると思う。
寄り添い、癒すのも女なら、近く見えてまったく理解できていなかったり、時に裏切るのもまた同じ女。だが俯瞰して見れば、やはり複雑な骨格を持ち傾きながらもそこに在る塔のように、片足でポーズを取って立っているのだ。映画の開幕に登場するオブジェのようなもの、これが誰から贈られたものなのか分かったとき、その青銅の重さは静かに胸を打つ。

さてここでいきなり話が飛ぶけれど、70年代のアメリカでルッキング・グラスというバンドが歌った『Brandy』というヒット曲(※3)がある。
ブランディとは、歌詞に登場する港町で働く女性の名前。彼女に対して男は、

"But my life, my lover, my lady, is the sea."
(俺にとっての恋人は海なのさ)

と語りかける。要するに、「お前さんはいい娘だけど、ずっと一緒にゃ居られねえぜ」というわけだ。

なんとも男性本位な「ロマン(笑)」にかまけた詞で、某フェミ界隈の檻に投げ込むには実に手頃な餌になりそうだけれど、この映画を観た後だと、取り残されたブランディ(やカリュプソー、その他たくさんの名前もない女神たち)にも女たちだけの海を駆る戦友がきっと居たんじゃあないのかな、とか思えたりする。かも。

だんだん気づいてきたのだけれど、もしかしてアルモドバルさんって根はポジティブだね?

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※1:若い頃のジュリエッタから思い出したのは、ティル・チューズデイ時代のエイミー・マンだ。

※2:『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズに登場した女神カリプソ(演じるのはナオミ・ハリス)でもお馴染み。

※3:『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーvol.2』でもお馴染み。因みに、燦然と輝く一発屋である。