No.3216
『ゴッホの人生とはつまり、テオの人生である』
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この映画の制作方法については他のたくさんの方が言及されているとおりなので割愛します。
私もアートが大好きなので、ゴッホの絵もだいぶたくさん実物を見てきました。
彼の絵の前に立つと、いつも形容しがたい「さみしさ」「悲しみ」が襲ってきます。
しかし、それと同時に「いつくしみ」「いとしさ」などという暖かい感情も湧き上がってくるのです。そして、
その時には必ず、弟・テオの存在がキャンバスを通して浮かび上がってきます。
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本作では、アルマンが私立探偵のように、フィンセントの死の謎に迫っていきますが、
その謎に迫れば迫るほど、逆に彼は、フィンセントの「生」と、弟テオの「生」のことについても考えなければならなくなります。
そして、アルマンにとっての最大の謎はいつしか、フィンセントの死そのものよりも、
通常の感覚では理解しがたい「兄弟愛」の方へと、(深層では)シフトしていくのです。
テオはなぜ、その時点では売れる見込みの全くなかった(一部の画家からは評価されていたが)兄を、生涯に渡って支援し続けたのか。
兄弟だからか、家族だからか、本当にそれだけなのか。
私は思います。
「兄を真実の芸術家であり続けさせるため、そのためだけに、テオは身を削って、支援し続けた」
いつしか手段が目的となり、テオの支援そのものが、画家「フィンセント・ファン・ゴッホ」となった。
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テオの支援があったからこそ、フィンセントは子供を膝に乗せて、楽しそうに絵を描いてあげることができたのです(あのシーンは泣ける)。
🌻