まぬままおま

ノー・ホーム・ムーヴィーのまぬままおまのレビュー・感想・評価

ノー・ホーム・ムーヴィー(2015年製作の映画)
4.0
アケルマンが晩年の老いゆく母・ナタリアをドキュメントした作品。ただ母の姿のみをドキュメントしているわけではなく、母の記憶やアケルマンと母の親密な関係、母を介護/世話する姉シルヴィアーヌやメキシコ人女性介護者、またはブリュッセルのアパルトマン/住処、そしてユダヤ人の拠り所としてのイスラエルの風景もドキュメントされている。

撮影機材は「軽量小型ヴィデオ・キャメラ」と「携帯電話」(p.65 ☆1)であり、照明は設計されていなかったり、ルックにおける技巧は感じられないので「ホーム・ムーヴィー」のようである。しかし本作が「ノー・ホーム・ムーヴィー」であるのは、「ノイズをみる/きくこと」と「記録する明確な意図があること」だろう。アケルマンは映画監督として何気ない家族の日常を撮っているのではなく、母との人生を記録する明確な意図のもとノイズをみる/きいている。

ファーストカットではイスラエルの荒涼とした土地で木々が揺らめいでいる様子が映される。印象的なのは風の音がうるさくて、音が割れていることである。これはノイズとしての音であり、映画館で映画として現前されていなければ聞くに堪えないものである。しかしこのノイズがファーストカットに採用され、音量が選択されるのには意図があるはずだ。そしてその意図を解釈するならば母・ナタリアが老いて弱々しくなっているその悲痛さに眼差しを向け続けるためであろう。それはアケルマンと母の親密な関係をドキュメントした「ホーム・ムーヴィー」であると同時に私たち観賞者が自らの親密な関係を想起したり、みるに堪えない弱くなる身体に眼差しを向ける「ノー・ホーム・ムーヴィー」となる。この時、普遍性を獲得して本作は「映画」になる。

「ホーム・ムーヴィー」の側面を取り上げれば、アケルマンと母がSkypeをするシーンがある。Skypeは彼女と母をどこにいても繋げ会話を可能にする「世界の窓」になる。しかし直接会って、みて、きかないと分からないことはある。Skypeでは情報のやりとりと当たり障りのない会話へと音声が還元されてしまう。

だからアケルマンは母と食事をしている何気ない会話の中で、ユダヤ人として迫害された母の記憶や自らのユダヤ性について話せる/聞き出せる。それはきっと映画として記録したいことでもあり、そのためにアケルマンの座り位置は母の顔が映るようにずらされている。映画たり得る明確な意図だ。

しかし直接会って、みて、きくと「ノイズ」も現れている。生活を共にするわずらわしさ、感情に起伏を生じさせる会話や出来事、そして老いて死にそうになる弱き身体が。それでもアケルマンは記録した。何としても母の痕跡を記録するために。ラストシーンでは母が今にも死にそうでむせ、咳をして、椅子に腰掛けるしかない母が容赦なく記録される。その母の今にも消えそうな〈声〉。「ノイズ」として消去したくなってしまう〈声〉はそれでも確かに私たちに語りかける。

☆1『シャンタル・アケルマン映画祭2023公式パンフレット』 

蛇足
アケルマン監督はアメスピ(黄色)吸ってる。