ロッツォ國友

ヒトラーへの285枚の葉書のロッツォ國友のレビュー・感想・評価

ヒトラーへの285枚の葉書(2016年製作の映画)
2.3
英語を喋るドイツ人工場長が、仏頂面で毎日暴言を書き続けるお話!!!!


んー…
なーんか…
うーん……


映画としては、大きな画面に移す映像としてはとても綺麗だとは思う。
光加減、色加減が締まっていて無駄がなく、1シーン1シーンが美しい。それこそ絵葉書のようだな。

そして息子の無念を忘れず、信念を曲げずに険しい道を揃って進み続ける夫婦の姿には、狂気にも似た力強さを感じるし、これが実話ってのが何よりアツい。
一度でもミスれば殺されるし、一度成功したとしても殆ど影響は見えてこないハイリスクローリターンな主張をやめない夫婦の話は、確かに映画の題材として申し分ないだろう。
また、最終的にその影響力が意外な形で発露するクライマックスは、メッセージ性を持たせながらも映像として美しい、見事なラストカットだったと思う。


ただ、映画としては良かった本作だが、邦題に見えるようなジャパニーズプロモーションの効果もあってか、何だか腑に落ちなかった。それを書きたい。


まず、俺が重要だと思う3つの要素を整理する。

①ヒトラー率いるナチスは、ユダヤ人を筆頭に大量虐殺を行った。
②その惨たらしい行いは世界中の批判の対象となり、多くのナチ批判作品が作られ続けている。
③本作の主人公達はユダヤ人でもその仲間でもなく、また「葉書」を作り続けた理由は徴兵された息子が戦死した無念から。

イビツだと思った。
ナチスが悪者にされる理由は、不当な差別で大量虐殺を行なったことと、戦争で負けたことだ。
大量虐殺の人数で言えば、スターリン率いるソビエト連邦の方が遥かに上だが、戦勝国側ということでウヤムヤになっている側面がある。


本作には、近所のユダヤ人のお婆さんが大変な目に遭う、というシーンはあるものの、序盤でさらっと進行する上に、表現としてもこの出来事にあまり重きを置いておらず、主人公の怒りはあくまで息子の無念に端を発している。

だからこの物語の軸は、息子の戦死に憤る主人公と、政府側の捜査官の対立に置かれているのであって、ユダヤ人差別は大きなファクターではないし、事実例のお婆さん以外にユダヤ人要素は無い。


葉書にはナチスそのものをこき下ろす内容が綴られていたものの、とは言え「息子を殺した総統」が居なければ成立しない描写のバランスで話が進むのだ。

そこがどうもズレていると思う。
主人公の行動原理、ちゃんと説明してないよね??

実在の夫妻がナチ思想にどれほど批判的であったか分からないし、どういう意図で葉書を出し続けたのかも分からないものの、少なくともこの映画においては息子の死が葉書を書く一番の原動力として表現されている。
しかし当の葉書には、正しい報道だとか、ナチスは間違ってるだとか、割りかしスケールの大きい、一種プロパガンダっぽい批判が書いてあった。

ナチスの政策批判であるならば、では息子の死とは何だったのかという話になるし、息子の死を痛ましく思って書いた葉書に政治のことが書いてあったとしたら、この父親は悲しみと怒りのあまり半ば狂気を宿らせていたということになる。


ナチスは、ホロコーストという極悪な人種差別をやったから、悪い。
でもそれは、「ナチスだから悪い」のではない。
ナチスを批判したらみんな正義、ナチスはみんなクソ、という理屈が通るべきではない。
何故ならそれは、「ユダヤ人は全員クソ」と決めつけたあのチョビ髭七三パッツンの大馬鹿野郎の屁理屈と同じだから。


何より、息子はドイツ軍兵士として闘い、連合国軍に撃たれて戦死したのだから、批判は連合国軍の侵攻か、徴兵によって息子を戦場に連れ出したナチスの政策に対して向けられるべきなので、ここでもやはりホロコーストやユダヤ人は関係ない。
また息子の死という無念から導き出されるのは、徴兵制度か戦争そのものへの批判くらいじゃないだろうか。

そして徴兵制、またはそれに準ずる「従軍して国を応援しましょう」的思想はナチスに限った事ではないし、現代にも徴兵制はある。
だから、事実として夫妻がナチスを批判していたとしても、本作が数多ある映画の中でナチス批判作品として世に出されるには材料が足りていない。
そして仮にこの映画がナチ批判作品のつもりであるならば、ホロコースト描写がかなり薄いという意味では、不誠実とすら言える。


取って付けたような描写でも、ナチスが超悪い!的な重い表現を入れない限りは、息子を失った無念をナチス全体の悪行として強引に批判した狂気の男の物語としてしか本作は成り立たない。
少なくともあのお婆さん一人の不幸を流したくらいでは、あの量の葉書を後押しし切れないと思う。




ながーーーーーーーーったらしく書いたけど、
まぁあの、俺が言いたいのは、本作は息子の戦死の原因を政府に押し付けて批判を続けた男を取り巻く物語としては十分成立するが、ナチ批判作品としては不十分だということ。
原作者はナチ批判のつもりなんか元々無いのかもしれないし、或いは映画化されるにあたりユダヤ人迫害描写が減らされたのかもしれないが、どうもプロモーションを打つ側はこれがナチ批判映画であるかのように扱っていないか?

Alone of Berlinを「ヒトラーへの285枚の葉書」へと大幅に改変したことで、本作の力の置き所が分かりづらくなった。
285という最終到達点を最初から見せちゃうのもどうかとは思ったが、何より「ヒトラーへの」と置いたのがとても気になる。
手紙は確かにヒトラーへ向けられていたが、別にヒトラーでなくても成立する。ファシスト党でも人民解放軍でも、ソビエト連邦でも大日本帝国でも成立する。


ドイツ軍人である息子の死を置いた時点で、ナチス特有の罪であるホロコースト批判とは主張がズレる。
としたらあのお婆さん可哀想!ってシーンは別にいらない。
主人公が葉書量産に踏み切った理由が息子の死以外(悪いナチス批判とか)にあるのなら、描写として不十分だと思うし、逆に主人公の行動原理が息子の死にあるという本作の表現をそのまま受け取るのが正しいなら、ナチ批判作品っぽいプロモーションはミスリーディングだと思うし、そのつもりがないのにナチス政治批判に使うのは戦勝国側のエゴの押し付けではないだろうか。

結局主人公は、ナチスの何を批判していたのか見えてこない。


………っていうね!!!!!!
イイ話だしイイ映画なんだけど、ナチスというのが何ならすごくノイズだ。実話だからしょうがないんだが…
なんかどうしても主張がブレているように見えてしまう。
他の人は、どう観てるんだろう??
なんかそっちが気になっちゃったなぁ
ロッツォ國友

ロッツォ國友