Ryo

ブラック・スワンのRyoのレビュー・感想・評価

ブラック・スワン(2010年製作の映画)
4.1
役者というのは何が自分かわからなくなり精神的に辛い職業なんだと訴える役者賛美の映画

白鳥の湖と同じ自分自信が邪魔となり敵となるパーフェクトブルー激似物語。

彼女を追い詰めるものというのは全て彼女自身(二重人格)である。リリー実在するが印象が強すぎて妄想としても出てくるのでしょう。ニナが主役に抜擢されトイレで母親に報告した後鏡に「Whore」と書かれていましたがこれは監督の話だとニナ自身が自分で書いた、ここからすでに人格の解離が始まっていたのだ。リリー自体存在しない可能性があると言われているほど二重人格の映画なのである。クラブに行くシーンではフラッシュがかかりストップモーションのようになっているがあそこのシーンで実は周りの客たちが全部ナタリーポートマンになっていたり、リリーと抱きあうシーンでもリリーの顔がナタリーポートマンになっている。リリーは理想の形の妄想もしくは現実にいるが時に幻想として出てくる。
こう考えるとニナの黒鳥になりたいという理想の形(リリー)に振り回されたバレエ版ファイトクラブのような感じもした。

しかし逆に「役に入り込みすぎていた」と言っても説明がつきそうだなと思いました。

この映画にはたくさんの鏡が出てきており鏡像段階論がベースになっているとも思われます(パーフェクトブルーの方が強いと思いますが)。鏡はカメラの天敵なのによく撮影できたなとも思いました。
・鏡像段階論
「鏡像段階論」とは、簡単に説明すると、幼児がどのようにして人間の自我を形成していくかについての話です。
 まず、人間の幼児は、生まれてすぐの状態では「これが自分だ」という「統合された自分自身のイメージ」というのを持っていないと、ラカンは言います。そこで例えば、鏡に映った自分の姿を見たとき、はじめて「これが自分だ」という意識が芽生えて、それを元に自分自身の自我のイメージである「想像的自我」というのを形成していきます。
 また、「他者」との絡みが主に重要であり、「母親」や「父親」など、「他者」と接しながら生活することで、「他者にとっての自分」というイメージを形成していきます。そして、それが、最終的に「想像的自我」と言われる、自分自身の「自我」となっていきます。
 ここで、「他者」が「自分自身を映す鏡」としての機能を果たしていて、それらが映し出している「鏡像」から、「自我」を形成していくということになります。
 つまり、人間は「他者の視線」というのがあってこそ、「自分という自我」が生まれるという話です。



人間の光と闇をうまく表現しており見事にバレエ界の裏を映せていると思う。アカデミー賞主演女優賞を獲得したナタリー・ポートマンの演技も凄まじく適役で、白鳥の湖の主役に抜擢されるも主人公自身が役に飲み込まれ精神が崩れていく様子をうまく表せていると思います。ヨゴレ役ができないバレリーナはナタリーポートマンのの女優人生そのものです。黒鳥の恐怖感と美しさには唖然としました。妄想でしたがリリーを自分の中で殺したニナは自分を解き放つことができ見事黒鳥になったのです。(ちなみに本当の白鳥の湖も白鳥と黒鳥は同じ人が演じています)

ナタリーポートマンの変わりようはわかりやすく服の色で表している

ラストシーンはナタリーポートマンの解説によると彼女は死んでおらず、今までの甘えてる子供の自分を殺し大人になった瞬間だったと語っている。

ちなみにエンドロールでは
NINA/WHITE SWAN
LILY/BLACK SWAN
となっておりましたが黒鳥を演じたのはもちろんニナでしたがなぜこういう記述になってたのでしょうか?

「レスラー」同様ナタリーポートマン自体まじめなイメージが付いているため役柄とナタリーポートマンが見事にシンクロしてる。元々はレスラーとブラックスワンは同じ企画であったとのことだが内容が多すぎるため分けたらしい。
Ryo

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