むねとしふうや

海は燃えている イタリア最南端の小さな島のむねとしふうやのレビュー・感想・評価

5.0
映画は常に排他的なメディアであった。ホワイトウォッシュだかなんだかの議論を思い出してもらいたい。映画は物語内外において民族的な偏りがかなり激しい。ポスコロの議論を援用すれば物語=表象=差別である。映画黎明期においてすらネイティヴアメリカンを差別した後ろ暗い過去が映画にはある。つまり、映画とはみんなを楽しませる娯楽的な一面ももちろんあろうが、それよりも何かを排他していった歴史の方が映画の根本的な特徴である。漱石が言うように、セームスペースをオキュパイすることは出来ないのだが、この排他性に乗っかった近代的メディアが映画である。
そして、この排他的な映画の中で難民を受け入れることは出来るのだろうか。端的に言えば出来ない。この映画の中で難民が島民と交わることはないが、とりあえず難民を受け入れるにも、彼らのボディチェックを欠かすことは出来ない。何のためにボディチェックをするかは明かされないが、あの光景はおぞましい。難民という誤解を恐れずに言えば憐れむべき存在である彼らを島に迎え入れるのに、全身隈無く触り上げ、自分(西欧)に害のないことを確かめないと受け入れない。もちろん、治安維持の上では欠かせない行為であろう。しかし、決死の覚悟で逃げたして来た人々に対してボディチェックをしないと済まされないその排他性は落胆せずにはいられない。ボディチェックをやめるべきだといったことを言いたいわけでもないし、自分に害のないものしか受け入れられない排他性も理解できる。ただ、自分の制度に馴染まないものに対してあまりに冷酷に振る舞ったり、制度に馴染ませるために洗礼を受けさせることがなんとも物悲しいのだ。この映画の中で、西欧における難民に向けられる渋い顔が写されることはないが、難民の難しさの一つは紛れもなくこの排他性で、物語もこの排他性と同じ運動を有している。
西欧として、また訪問者として制度の洗礼を受ける彼らはやはりこの映画の中でも排他的に扱われている。それは西部劇でネイティヴアメリカンが敵として登場したのと全く同じ排他性である。だから、どうしたって映画の中で難民を受け入れることなど出来ないのだ。だが、それでもなお、彼らを撃たないこと出来る。西部劇であればネイティヴアメリカンは道を阻む敵として殺された。ゴダールが大好きなカットバックという映画の魔法がここでは効果的に使われる。まず、撃つ者を写し、次のカットでは撃たれるものが流血する。次のカットで再び撃つ者が写され玉が当たったリアクションをとる、という誰もが慣れ親しんでいる映画の文法である。この映画の中にも、撃つ者が登場するが、まだ声変わりも迎えていない幼い西欧人である少年はゴムで出来たパチンコ遊びに興じる。その延長なのか、海に向けて、少年がショットガンを撃つ仕草を二度真似るのだが、この銃口がどこに向けられているのかカメラが映し出すことはない。海の向こうには恐らく祖国の悲劇を逃れた難民が過酷な船旅をしていることだろう。確かに彼らを受け入れるにしても、自分達に害のないことを証明出来なければ受け入れられない。だが、彼らを撃たないことは出来る。敵として、訪問者として登場する彼らを、無理やり実は味方にしなくとも、彼らを撃たないという方法で受け入れることが出来る。少年の銃口が向く先はあくまで、草花や鳥であり、難民たちを撃とうとはしない。この優しさに溢れた映画は、間違いなく撮られるべき映画であった、と断言しよう。