まぬままおま

淵に立つのまぬままおまのレビュー・感想・評価

淵に立つ(2016年製作の映画)
5.0
深田晃司監督作品。何たる傑作。なぜ今までみてなかったのか。

夫と妻と娘のどこにでもいるような家族。夫と妻の仲が冷え切っているのもよくあることだが、それなりにうまくはやっている。ピアノの旋律のように。しかし夫の昔ながらの友人らしき八坂がきてから一転、美しい旋律にノイズが混じるように、崩れる。その崩れ方がどんどん嫌な方向にいってしまうのがつらい。でも間違いなく傑作だ。

以下、ネタバレ含みます。

物語の構造が完璧で美しい。

本作は「どのように罪を赦せるか」がひとつのテーマになっている。このようなキリスト教的テーマがあることは、作中の母娘の信仰の描写からも窺える。さらにこのテーマを語る上で、「告白」は重要な要素だろう。そしてその対になる「秘密」の概念を夫妻の対置で語っているのだ。

妻の章江は「告白」の人だ。彼女に対峙する人は告白を余儀なくされる。八坂は章江に自らの過去である殺人を犯して収監されたことを告白するし、八坂の息子の孝司もまた父との関係を告白する。この告白は、八坂の場合、不倫に転じて後に娘への暴力へと発展してしまうし、孝司の場合は、罪のフラッシュバックと関係性の破綻に繋がってしまう。告白は赦しにはならないのだ。
かといって夫に属する「秘密」もまた罪なのだ。夫は八坂との関係を妻に秘密にする。孝治の出自についても秘密にしようとする。しかしその秘密は告白によって、秘密のままではなくなり、誰かを救うことにはならない。
このように「告白」も「秘密」も赦しにはならない。夫と妻が対峙し、本音を語るとき、双方が秘密を告白しようとも離婚という破綻につながってしまうのだから悲壮だ。

八坂に暴力を振るわれ、障害をもって生き延びてしまった娘、という名の皆の原罪。彼らは罪から解放されることなく、背負って生きなければならないのがあまりに悲痛だ。

八坂は物語で二度と現れない。関係なく罰を受けた娘の障害が治ることもされない。夫婦関係も良好にならない。孝司も赦せない。あるのは母娘の投身自殺だけであり、横たわることしかできない。

4人が横たわるとき、かつての家族の写真とリフレインされている。あの写真は家族であることを告白すると共に〈声〉を消され秘密を抱えたイメージだ。
彼らがこれからも家族であるために、それには告白と秘密の調律が必要だろう。そして4人が美しい旋律を奏でることを祈ることしかできない。そこに赦しがなくても。

追記
母は娘が暴力を受けた原因を自分が八坂とのセックスを断ったからだとし、ケガレの意識から潔癖症になる。だが石鹸でいくら手を洗おうと罪は洗い流せないのが悲しい。さらに石鹸の白は八坂に付与されるカラーで章江に一生つきまとうのがつらい。ちなみに章江に付与されるカラーはピンクであり、専用の石鹸や衣装から確認できる。