この前に観た小沢啓一の驚くべき「絵」の、韜晦·迂回的なヤクザ否定映画、の『無頼』後続の1本目もそうだが、綺麗なプリント+プロジェクターの威力を思い知る。これまで『野良犬』といえば、面白みがそうなく、大島と呼応ではなかろうが沖縄·松坂の方ではないヒロインのインパクト(今見直すと、太鳳ちゃんふう?)·の記憶だけの作品だった。しかし、美しく力あるプリントで見直すと、イメージはかなり刷新される。
緑魔子前後に森崎喜劇に通ず数人のクセと味ある俳優が続くが、全体には可笑しみにはまる部分や、ひねた人生賛歌などは無縁に、只·日常と社会が、個人の意志や拘り等隅に置いて進み、その大きさに包まれ流されるだけの、味気なく·わだかまりも表から消されるだけに描写されてゆく。事件、刑事の拳銃の略奪·奪還と再手離れ·隠され輸送、らが映画としてのポイント·誇張を加えられず、只·現実的感触·目撃のようにスーッと繋がれるだけで、ブツ自体への関心は途切れ薄れてゆく(間置いて、その現れ·扱いに、本能的恐怖が再浮上する)。寧ろ、それに奔走·追廻し絡まる人(ら)の、足を着け踏み込んでくベースのあり方の方を、瞬間瞬間最適の位置·角度取りで必要を越えて立体に切替わり、普通の展開の映画では考えられぬ、着実·手広く·確実さから手離さない。犯罪を作り囲む世界の動向·呼吸の姿が逐次確実·動的に写し撮られてゆく。暗い場面も多出平気だ。銃の行方への興味繋ぎよりも、悲惨と対位的に流れもする普通の現実音楽のあり方(黒沢の『酔いど~』『野良犬』で鮮やかだった手法·現実感)、強い雨から台風の通過の·人間社会やドラマと無縁に包み込む·自然の力の塊りの威容、予感から只少女をヒッチ+『フレ~コネ2』的に尾けまわす行動から紡ぎ出されてくる何か、らが平然と割り込み鎮座し同居、少なくとも表面的現実を導き支配してゆく。スローやDIS·OLの手法やCU表情力の詩情·憤怒の手法も飾りに留まり、副次的だ。
「他人の悲しみに沈めて、自己の喜び·達成感を得る、刑事という職」「本土から白い目が意識もない普通の、沖縄の代々の被ったもの。同じ中で生き続けて来た仲間は、犯罪も皆が共同共有するまで止めぬ」。回想や説明は理解に働かず、理不尽な瞬時仕草·行動だけが、焼き付けられる。ドラマを介さない何かを受け止める。犯罪に使われた盗難車のナンバーや特徴の記憶、廃車の処置や暴力団の娼婦を得る手段、らの手口はあまりピンとこないし、観てる側にはどうでもよくも思える。
映画的なテクニック·陶酔·詩情·広範な層に訴える力、それらは明らかに黒澤オリジナル版が上だろう。しかし、甘い解釈を安易に加えぬ、冷徹·特異·客観·徹底の唯一絶対の存在体の作り出しからは、遥かに森崎版が重要·貴重だと、しっかりしたプリントからやっと分かる。やはり、当時の沖縄返還後のわだかまり残る風潮さえ、社会性を越えて取込んだ、説明的商業映画をかなり離れた、作(当時深夜TVでよくやってた、『アルジェの戦い』に少し近いか)。