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ブレードランナー 2049のAKのネタバレレビュー・内容・結末

ブレードランナー 2049(2017年製作の映画)
4.9

このレビューはネタバレを含みます

「選ばれてあることの恍惚と不安、我にあり」──ポール・ヴェルレーヌ

太宰治は処女作品集『晩年』所収「葉」のなかで上記の言葉を引用する。太宰はもちろん、強烈な自意識とその圧倒的な才と自信からにこの句を引用したのだろうが、実際のヴェルレーヌの「選ばれる」とは、人として神に選ばれること、つまりは信仰の問題をこの詩は語っていた。

太宰的なナルシシズムを排した場合、「選ばれし者」とは神話の英雄や絶対王政の権力者などを意味する。その言葉を再度キリスト教に戻せば、究極の選ばれし者とは、(まさにこれを『エピソード1』でハリウッドはパロディーにするわけだが)イエス・キリストその人に他ならない。親である神に向かい、「なぜ?」と問いながら絶命することが許された、運命の子。

私たち人間は、太宰的な「選ばれし」恍惚に悶えることは出来ても、神話の英雄まして神の子イエスに自己を投影することは絶対に出来ない。もしキリストの苦悩を自己のものだとした時、そのナルシシズムはもはや人間の域を超えて、キリストは神ではなくなる。

では、私たち人間が聖書のなかで最も感情移入ができる「人間」で最も偉大な「選ばれし者」は誰か? これはあまりにも魅力的で同時に恐ろしい問であり、その答えは一人ひとり違うだろう。僕の場合、その答えは昔からずっと変わらない。「バプテスマのヨハネ」だ。イエスに洗礼を授け、ヘロデに首を跳ねられる荒野の聖者こそが、初めて彼を知ったガキの時からずっと特別な存在だ。

『ブレードランナー2049』は、文字通りの「運命の子」を巡る物語である。物語の下敷きとなっているのは、幼子イエスをめぐるヘロデの迫害と追手のエピソードだ。(日本人にもそれがわかるように、字幕は「奇跡の御子」と表記される配慮がなされている)

その救いと迫害の物語において、主人公“K”は、まさに「バプテスマのヨハネ」の苦しみを背負うこととなる。彼は「運命の子」のために、その道を整え、生命を奪われる。有能なブレードランナーとしてのK、アイデンティティ不安に陥るK、選ばれし者としての恍惚に震えるK、真実を知り虚無に向き合うK──。彼のラストシーンは、前作『ブレードランナー』で最も美しいシーンであるロイ・バッティの死のシーンと意識的に重ねられる。反逆するレプリカントの罪は、人間に服従しないことではなく、愛を求めたことだった。本作は、その愛の未来を描くわけだが、同時にその成就する奇跡の愛を守るために、Kは愛のその先の絶望を生きることとなる。

製作総指揮リドリー・スコット、監督ドゥニ・ヴィルヌーヴ、音楽ハンス・ジマー、撮影ロジャー・ディーキンス。そしてライアン・ゴズリングにハリソン・フォード。全員が最高の仕事をしている。既存作品のリメイクではなく、革新的なものを作るという気概に満ち、それが全シーンで見事に結実している。とりわけロジャー・ディーキンスはとてつもない仕事をした。

英国NMEは「映画の奇跡」と題したレビューで本作に満点を与えた。しかし、この奇跡は紛れもなく人の仕業である。『ブレードランナー2049』は、「奇跡とは(神の手を用いずに)どのように人の手で作られるのか」を示した映画である。奇跡の価値は、人間には──そしてレプリカントにも──あまりに重い。
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