そーた

ブレードランナー 2049のそーたのレビュー・感想・評価

ブレードランナー 2049(2017年製作の映画)
4.1
一緒くた

写真と絵画。
以前、両者の違いに悩んだ事がありました。

超絶技法を駆使し写真と見紛うほどの絵を目の前にしたとき、
僕たちはそれを写真と見なしてしまうのではないのか···

制作過程が伏せられ、見た目では写真か絵画か区別がつかなければ、
僕らにそれを判別するすべはありません。

それじゃあ、
レプリカントと人間は??

約35年ぶりに現代へと問い直されたこの命題。

旧世代のレプリカント駆逐のために存在する次世代のネクサス9型レプリカントが追い求めた真実は、
果して人類にとっての希望か、
はたまた絶望なのか···

前作の延長線上に位置する2049年の未来世界。
レプリカントの世代交代や迫害に、
退廃した都市、汚染された大地···

あまりにも希望の少ない世界の中で粛々と生きる人々は、
ある意味逞しいとも言えるし、
そしてそれが同時に人間臭くもある。

社会の枠組みの中で生きること。
これを人間としてのいち条件として採用してしまえば、
人間の生活を模倣するレプリカントもまた、人間と見なさざるを得なくなってしまいます。

職や上司を持ち、住む家があり、擬似的な恋愛をも楽しむKというレプリカントもまた、
果たして人間と呼べる代物なのでしょうか。

かつて、アリストテレスが
人間を「ポリス的動物」と表現しました。

ポリス=社会

こう、解釈してしまえば、
やはり組織集団を形勢した生命体は漏れなく人間のお墨付きを得てしまいます。

アリストテレスの言わんとすること。

「ポリス的動物」という字面の内面には、
彼の師のさらに師、
ソクラテスが主張した「善く生きること」、
これを社会の中で実践するという条件がどうにも付加されているらしいのです。

ということは、
社会の中で生きるということだけでは人間の条件を満たす事にはならず、
その生き方を常に問い直し、
そしてそれを実践し初めて人間の諸条件を満たすのだと言えます。

さすれば、
Kを人間と呼ぶことは、
彼が単に人真似をしているが故に困難を極めます。

ただ、
この伝説的なSF作品待望の続編を観すすめていくうちに、
僕らは新型レプリカントの苦悩する姿を目にする事になる。

そして、最大の面白さはその姿に人の影を見いだすことができるということ。

劇中でデッカードがさりげなく呟く、
「本物」という言葉。

人間もレプリカントも、
それは写真と絵画と同じように、
実は単なる分類上の定義でしかありません。

それらがどちらも"本物"であるのならば···

ぼやかされた境界線をまたいで、
新旧ブレードランナー同士が激しく殴り合う。

そのいさかいに水を差すかのように、
プレスリーの甘い歌声が響き渡る。

前作の謎が、
新たな付加価値を得て、
まどろみの中へと帰っていく。

この感覚はなんだか新しい。
時間差でじわりじわりと訪れるノスタルジー。

芸術とはこういうものなんだろうな。
とても深い。

写真も絵画も一緒くたに。

新たな世界が開かれたような気がしました。

映画よ、
今年もありがとう。
そーた

そーた