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パーソナル・ショッパーのmndisのレビュー・感想・評価

パーソナル・ショッパー(2016年製作の映画)
4.3
オリヴィエ・アサイアスの「パーソナル・ショッパー」は忖度疲れの現代版シンデレラだった
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監督の作品を観たのはこれで3本目。

1つはアニメ制作会社を舞台にした企業スパイ映画「デーモン・ラヴァー」。
(音楽は全編SONIC YOUTHのオリジナル楽曲!DVDの特典には彼らの楽曲を収録する様子などが収められていた。)

2つ目はジュリエット・ビノシュ、クロエ・グレース・モレッツ、そして今作にも
主役で登場するクリステン・スチュワートなど豪華女優陣の競演が話題になった「アクトレス~女たちの舞台~」。

オリヴィエ・アサイアスの代表作と言ったら、もっと他の作品になると思うのだけど
この3本だけを観た印象で語ると、社会の変化や異変に反応するのが凄く早い監督という印象。


例えば、
かなり前に観たため記憶は曖昧だけど、「デーモン・ラヴァー」は、海外の企業による
日本のエロ・アニメの権利の買い取りを巡った企業スパイ映画で、この映画の制作は02年(日本公開は05年)。
当時はそこまでインターネットがそこまで普及してない時代で日本でもやっと家庭に1台パソコンが入ってきた様な時代。
しかも当時は、まだ日本のアニメがここまで世界的なブームになどなっていなかった。

そして前作「アクトレス」では、堕ちゆく大物女優と人気若手女優の争いという、ありがちな王道ストーリーを繰り広げつつも、
そのテーマの周囲には、SNSやネット上の掲示板で繰り広げられセレブ達への誹謗中傷や、
スノーデンの暴露によって暴かれたgoogleなどの大企業による個人監視という、
人気商売である俳優業では避けられない観客から【観られる】という行為と、インターネットの普及による国家や大企業による個人への【監視】という
2つの【みる】という行為をうまく取り入れ、見られる側のその怖さを描いている。

そして最新作の「パーソナル・ショッパー」でも、映画自体を取っつきやすいファッション映画の様に見せつつも、
本質は全く違うというある種のフェイク的な見せ方で現代社会のメール主体のコミニケーションの取り方をうまく描いていたりする。


こう振り返ると「デーモン・ラヴァー」は10年早いし、
「アクトレス」も映画製作の時間を考えれば3、4年ぐらい早い気がする。
そういう意味でもオリヴィエ・アサイアスは、そこまで知名度はないし地味なイメージだけど、
最新作「パーソナル・ショッパー」でカンヌで監督賞を受賞するなど、今後凄く重要な監督になっていくのではないかと思う。


そんな注目の監督オリヴィエ・アサイアスの最新作「パーソナル・ショッパー」。

ストーリーは、忙しいセレブの代わりにショッピングを代行する“パーソナルショッパー”を稼業とする女性、モウリーン(クリステン・スチュワート)が、亡くなった双子の兄弟との交信を図ろうとする所から始まるのだが、、、

この"パーソナルショッパー"という聞きなれない職業のエピソードに対して、"霊と交信を図る女性"というとんでもない要素を組合せ、オリヴィエ・アサイアスはストーリーを展開していく。

映画自体の宣伝仕方もファッション映画の様な推し方をしている上に、"シャネル"、"カルティエ"、"クリステン・スチュワート"といったワードが並び、女性向けのオシャレな映画だと認識させてのこの落差はなかなかのもんだ。

『プラダを着た悪魔』を観ようと思ったらスクリーンから、黒沢清のホラー映画が流れてきたぐらいのスカし感を味わうのではないだろうか。
※因みに監督のポジションも、この映画のスタイルも黒沢清とソックリだ。特に霊という存在に親しみを感じさせる描き方をした『岸辺の旅』『タゲレオタイプの女』に凄く似てる)

しかも劇中に、シャネルの服やカルティエのアクセサリーが登場しても、正直、映画自体に華やかな印象はほぼな無い。
何故なら、そのほとんどのアイテムは身に付けられずに、プレスルームやクローゼットに掛けられているだけだからだ。



しかし、それは決してマイナスではなく映画の中で意図を持って演出され、映画の中で意味を持ってくる。


僕は、この映画を現代版・シンデレラだと思っている。

例えば、パーソナルショッパーであるモウリーンが、買い集めたドレスを着てパーティーではしゃぐセレブは、シンデレラを虐める義理の姉であり、それをネットニュースで眺めるモウリーンは現代版シンデレラであるのだ。

おとぎ話のシンデレラも着飾る事など許されないが、モウリーンも仕事である以上セレブの為のドレスを勝手に着る事など許されない。本人もそれを強く理解しておりタブーだと発言している。

シンデレラは最終的には、ドレスを身に付け、かぼちゃの馬車に乗ってパーティーに向かい王子様と再会する、しかし現代版ではそうはならない。

モウリーンはタブー破り、雇い主の家で1人シャネルのドレスを身に纏い、ベットルームで自慰行為にふける。
彼女は着飾ってもどこにも行けないし、相手もいないのだ。

因みに、ここまで、ホラー映画の暗いトーンで映画が進行していたにも関わらず、このシーンでは突然、曲名は分からないが、いかにもディズニー映画に流れそうなキラキラとした音楽が付けられており、それが更におとぎ話のシンデレラと、この映画を被らせる。

この様に映画『パーソナルショッパー』は、『シンデレラ』と同じく"抑圧された女性の解放"を描つつ、もう1つのテーマも描いている。

それは『コミュニケーションの不在』だと思う。モウリーンにパーティーで出会う王子様がいないのも、それを意味する。

中盤、モウリーンの携帯には宛先不明の相手からショートメッセージが届く。

モウリーンは、そのメッセージを亡くなった双子の兄弟なのではないかと半信半疑でありながら、相手との交信を続けるのだが

そのモウリーンの様子が非常に情緒不安定なのだ。

携帯から目が離せなくなり何度も画面を見たり、相手との意思疎通が出来ず爪を噛んで苛立ったり。

送られてくるメッセージが不気味な内容だったりする為、情緒が不安定になる事は理解出来る、そしてこの時に感じる恐怖の原因は、相手の顔が見えない事と、意図が分からないという2点だと思う。

そして、モウリーンはその不安を払拭しようと、相手を想像し相手の意図を読み取ろうとする事で、精神的なストレスを溜めていく。

モウリーンはこの行為を、宛先不明のメッセージの送り主だけでなく、同じく目に見えない存在である幽霊にも行うのだ。

心霊スポットなどで発せられるというラップ音。それをモウリーンは亡くなった双子の兄弟からのメッセージだと思い、何度もその意図を読み取ろうとするのだ。

改めてこの感想を書いていて、なんて変な映画なんだろうかと思っているのだけど、しかし、ここがオリヴィエ・アサイアスの凄さだと思う。

このモウリーンの見えない相手を想像し、意図を読み取ろうとするという対応は、携帯やパソコンがメールやSNSが普及した現代社会の中で生きる私達にとって物凄く身近な行為なのだから。

幽霊と交信する女という、ぶっ飛んだ設定で、現代社会を描けるオリヴィエ・アサイアスはオリジナリティのある本物の表現者で間違いない。


最後にモウリーンというキャラクターについて書きたいと思う。


モウリーンは、現状の自分に満足しておらず、パーソナルショッパーという仕事にも不満を持っており早く新たな自分を見つけたいと思っている。

それを表す様に劇中には、何度も扉を開けるシーンがある。ファーストシーンも亡くなった双子の兄弟が住んでいた家の扉を開けるシーンから始まる。

その扉を開けるという行為には、何かを探していたり、何かを新しい所に行きたいという、欲求をイメージさせる描写であり、ここでもオリヴィエ・アサイアスはモウリーンの心情やキャラクターを雄弁に語っている。


映画はラスト、
モウリーンの「私の考えすぎなの?」という問いに、「YES」という答えが返ってきて終わりを告げる。

そこには相手を思い、今で言う"忖度"し過ぎて疲弊したモウリーンを優しく見守る兄弟の存在を感じさせる。
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