無味

藍色夏恋の無味のレビュー・感想・評価

藍色夏恋(2002年製作の映画)
5.0
読み返したくないから投稿していなかった2020年夏



青春ってなんかムカつく。思春期はイタい。どっちもダサすぎる。妄想特有の全能感と現実特有の劣等感、曖昧な感傷に浸っては死んだような目で日々をこなしていく。一日は長いのに、毎日は短かった。teenagerが過ごす時間を青春や思春期と呼ぶのなら、わたしのそれは全会一致で最低最悪なものだっただろう。約一年半前、わたしは人生で初めて父に怒られた。父は最後に慰めるような声で「お前のそれは思春期特有のやつだ」みたいなことを言った。わたしはふざけるな、と思った。沸き出る屁理屈と情けない生活の記憶で頭が満たされては、いつも通り虚しくなるだけだった。わたしにとって思春期は終わりない地獄そのものだった。わたしは高校時代、"ネバーエンディング思春期"を謳うあるバンドが大好きで、そのキャッチフレーズに囚われながら、救われながら、わたしには本気でこの音楽しかないと思っていた。全部全部わたしの歌だと信じていたし、この音楽がずっと好きなんだろうなと思っていた。だけど高校を卒業した途端、わたしはそのバンドの曲をまったく聴けなくなった。聴こうと思えばいつでも聴けるのに、どうしても再生することができない。あっけない思春期の終わりだった。わたしの最低最悪な言動はすべて思春期のせいだったのかもしれない。父の言うことは正しかったのかもしれない。夕方に起きてふらふらと家を出て映画館でバタンキューする毎日も、わたしの青春だったのかもしれない。狭い世界で足掻いて、届かない声で叫んで、何かを盲目に信じ切ること。teenagerの恋愛が神聖化するのってそういうことだと思う。永遠や絶対が存在しないなんてのは今まで嫌になるくらい聞いてきたけど、そんなの知ったこっちゃ無い。この恋も、愛も、思春期も、永遠に続くものだと思ってしまう。信仰と呪縛は紙一重、ひとによれば表裏一体。永遠や絶対に取り付かれている時間がどれだけ楽しかろうがどれだけ辛かろうが、ただ防波堤の先端に立ち竦んだまま水平線を通観している、それだけなのだろう。平凡な毎日は波のように繰り返し、過ぎ去りし厖大な時間は茫洋な海に飲み込まれる。わたしはその場から見えるすべてに、今あるわたしのすべてを重ねる。空は曇っていても、視界は一点の曇りなく開けている。だけど目に映るのは、変わらずそこにある海と空だけだ。立ち竦んだままのわたしは、漠然とした未来までをもこの狭い視野に重ねるしかない。すべてがどこまでも続く気がして、終わりなんて無いような気がした。
今夏、わたしはフェリーに乗っていた。展望デッキに据え付けられたベンチに座り、先には青すぎて白っぽい空と、青すぎて黒っぽい海が広がっていた。蒼茫たる世界に打たれながらわたしはふと思い立って、「水平線までの距離」とグーグル先生に問うた。そして驚いた。水平線まで、たったの5キロらしい。今見えている終わりまでたったの5キロ。そしてまた驚いた。今のわたしは水平線を"終わり"だと認識しているらしかった。どこまでも続く気がして終わりなんてないように思えた水平線は、ちっぽけな指標になっていた。ただのゴールライン。わたしの滑らかな移動は、さっきまで見えていた終わりを通過していく。わたしの目に映る終わりは1秒前のそれではない。止まることなく移動を、変化を続ける。そして気づけばそれは見えなくなり、わたしは目的地の離島へと到着していた。水平線・ゴールライン・終わり、は通過点でしかなかったのである。面白かった。マジか〜しょうもね〜って感じ。この日から最低最悪な思春期をふと懐かしんでしまうんです。そんですっごい不思議なんですよね、なぜだかきらきら光っている。あの頃は心が重たくて、何も自分に取り込むことができないでいた。だけど今になって、心に入れられなかったはずのあの日あの時の景色が鮮明に、まるでアルバムをめくるかのように次々と思い出されていく。横断歩道のど真ん中で項垂れる延長コードや、公園に忘れ去られた虫取り網。ネカフェの道中、河川敷を仰いだ空いっぱいのうろこ雲。ガードレールにかけられたダウンジャケットが、冬が明ける頃に消えていたこと。山の上の不思議な神社でたぬきらしき動物を見たこと。偶然ツタヤで遭遇した友だちと3時間立ち話した夏休み最終日。好きだと信じたひとの好きな音楽をリピートしながら、初めてメイクしたこと。アップルパイと早朝の自転車。高校の近くの小さな山から見える夕焼け、遠くに並ぶビル、撮られた赤い横顔、ふたりの秘密の場所。セブンイレブンの袋いっぱい詰められたお菓子と、板チョコの裏に貼られた「太ってください」の紙きれ、誕生日のこと。激安スーパーで買い物中、顧問を見つけてふたりで店内を逃げ回ったこと。自転車に跨って缶ジュース1本耐久、何時間も駄弁った毎日のこと。「負けた方が勝った方の言うこと聞こう」で始まった線香花火、負けたわたし、期待するわたし、変わらなかった関係。終わらせてしまったたくさんのLINE。「また行こうね」が嘘になっちゃったこと。何気なく通り過ぎた些細な一瞬に吹いていた風や鼻に届いた匂いを、そして次の瞬間に描くわたしの目線の軌道を、ひとつひとつ思い出していく。そしてそれらすべてが重要な通過点だったのだと気付いて、わたしは妙な浮遊感を抱くのだ。思春期の終わりへ向かう通過点は目に見えないけれど、きっとマリオのセーブポイントのようになっていたのだと思う。それで心がぴょんって跳ねていたのだと思う。そんな目印のおかげで、いつでも取り出せる瞬間として心に保存されているのだ。今感じる胸の苦しさが、美化された思い出によるものであることを願う。わたしの恋は小学6年生で止まっていると信じていたけれど、本当はちゃんと恋愛していたのかもなーなんて。わたしは怖かったんだと思う。都合の良い信仰と都合の悪い呪縛。もう過去について客観的で中立的な判断は出来ない。わたしの思春期は本当に最低最悪なものだったんだろうか。わかんなくなっちゃったな。そんなわたしはまた新たに信仰する音楽を見つけました。今度こそ絶対、一生、好きだと思ってしまうけど、わたしはそれが存在しないことを知っている。それでも、それを承知で飛び込んでみよう、信じ切ってみようとする態度。今一度繰り返す。わたしの思春期は終わった。視界は一点の曇りなく開け、そして視野はどこまでも広い。わたしは水平線の終わりをとらえながら、終わりがないことを信じようとしている。あれほど憎かった思春期を、もう一度欲している。防波堤の先端に立ち竦むわたしはもういない。わたしは、船に乗って進む。夏に見た海は、藍色だった。
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