mai

ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャーのmaiのレビュー・感想・評価

4.1
とても良かったです。
彼の人生(半生?)を丁寧にまとめあげてる印象で、テンポよく展開は進んでいくけれど彼の感情は痛いほどに伝わってきて、偉大な作家の一部に触れられた気がしました。

私はサリンジャーの作品はひとつも読んだことなく(「ライ麦畑でつかまえて」の概要は知っているけれど、最初から最後まで読んだことはありませんでした)、その点で彼の伝記的な映画を観ようかどうか迷っていましたが、十二分に満足できました。

彼の作品は多くの若者たちに支持されています。その若者たちに共通するのは、ぶつけるべき場所を失った鬱屈した不満と自己への懐疑だと感じています。その感情こそ、サリンジャー自身が持っていたもので、彼は常に平安を手に入れられずにいたのだと思います。彼に手を差し伸べてくれる人は多くいて、彼は物理的には孤独ではなかったと思います。母親は父親に異を唱えてまで、彼が創作を学ぶために大学に行くことを後押ししてくれますし、その大学で出会ったウィット(今作ではケヴィン・スペイシーが演じてます…本当に本当に素晴らしい演技で、セクハラは良くないけれど彼の演技が見れなくなってしまうのはとても惜しいことだと感じました)は彼に作家とは何たるかを教えてくれ、親友とも呼べるような関係を築いてくれました(彼がドイツから帰国した際に、選集出版が上手くいかず、尽力してくれなかったと思ったサリンジャーは裏切られたと感じ、それ以降関係は冷え切ってしまうのですが…)。出版社の女性も彼をサポートしてくれ、晩餐会で出会ったクレアはギリギリまで彼のそばにいてくれます。彼自身もその愛をしっかりと感じ取っていて、それに応えたいと思うのですが、根っからの作家である彼にはどうしてもそれが難しい…彼に向けられる感情のほとんどが彼の執筆に還元されるとともに、彼にとって許容し難いような排除すべきものへと変貌していきます…彼に寄り添ってくれる人がいても、彼は結局のところ精神的には孤独を感じているのです。
彼の苦悩を実体験することはないですが、この映画ではそれが痛いほどに伝わってきて…皮肉なことに、そういう性格だったからこそ名作が生み出せたのだろうなと思いました。

この映画は印象的なセリフが多くて、彼を苦しめた「publishing is everything 」「不採用に耐えること」などなど…惹きつけられる言葉で溢れていました。さらに、キャストの素晴らしい演技。特に、彼がホールデンの作品を持ち込んだ際に完全否定をされた挙句「ホールデンは正気ではないのか?」と聞かれた際の何とも言えない表情が印象的でした。ホールデンは正に彼の一部(もしくはほとんど全部)を写し取ったもので、サリンジャーの親友どころか限りなく自分に近いものであったはずなのに、それを「正気ではない」とアイデンティティの否定にも近い意見を面と向かって言われた時の、彼の複雑な心情は想像するだけでも苦しいです。
演出も素晴らしくて、タバコの描き方が個人的に好きでした。マッチを点けては消したりなど。

事実は小説よりも奇なり…とは少し違うとは思うのですが、彼の作品が今も多く読まれてるのは、この映画を見れば納得です(これから彼の作品は読むつもりです)。
彼が自分自身のことを変わった人間だと思っていたのと同じように、どの時代にもそう思う若者は一定数いるわけで、それを作品に落とし込めたサリンジャーは紛れもなく天才だけれど、彼の持っていた感情は一定数の若者にとってはひどく普遍的なもので、だからこそ彼の作品は多くを惹きつけてやまないのだと思います。そして、そんな彼の作品が他の青春小説と大きく異なるのは、ある意味作品の中の出来事は彼にとってリアルで、それこそ「事実は小説より奇なり」だからだと私は感じました…小説のように最終的に結ばれる恋物語なんてリアルな世界では一握りなのと同じように、彼の作品も自分の感じたことに正直にリアルを切り取り、そのリアルな有様こそが、若者たちの自己投影の対象になり得て、支持を得るのでしょう。

完成度が高く、内容も素晴らしい映画でした。
一つだけ…邦題の「ひとりぼっちのサリンジャー」は余計だと思います。彼は望んで一人を選んだわけですし、原題訳の「ライ麦畑の反逆児」のみで十分だと思いました。
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