あでゆ

哭声 コクソンのあでゆのレビュー・感想・評価

哭声 コクソン(2016年製作の映画)
4.7
警察官ジョングが妻と娘と暮らす平和な村に正体不明のよそ者が住み着いて以来、住人たちは彼のうわさをささやいていた。やがて、村で突然村人が自分の家族を手にかける事件が発生する。犯人には、濁った目と湿疹でただれた肌という共通点があった。

観てる間、過多な情報量と二転三転する理屈に翻弄されて、疑心暗鬼に陥る作品。はっきり言えば『マザー!』にかなり近しい。

本作の根幹にあるのは冒頭に示される通り聖書、神の存在だ。その要素が『マザー!』のように散りばめられているし、気づかなければ気づかないかもしれない。そして神の話を扱っている一方で、実はやってることは人間同士の争いとそう変わらないというのも、『マザー!』と似ていて面白い。

僕の考えでは、石を投げる能力を持つ白い女はヤハウェで、國村隼はキリスト(これは間違いない)、そして祈祷師はその地に根付く預言者だ。
だからこそ祈祷師にとって上位存在であるヤハウェと、他宗派であるキリストは場合によって敵にもなるし仲間にもなるという微妙の関係性の上にいて、特に國村隼と祈祷師はお互いの縄張り争いをしているんだろうなと思った。ヤハウェはただ人間を試すということをするだけなので、深くは干渉しないのだろう。

神の言葉が唯一わかる司祭はペテロだ。彼はキリストが復活した後に、鶏が三回なくうちにお前なんか知らないと繰り返す。ペテロはキリスト教を捨てるのだ。だからこそ、もともと人に見えていた國村隼が、もはや異教の神となった後には悪魔のように見えてしまったんだろう。神は外から見れば悪魔にもなりうるんだ。

そしてこういう宗教的な争いが、よくある村八分的な話題だったり、韓国人と日本人の関係性に置き換えられていて、結局神様も人間様も争う時にやることは大して変わらんのだろうと考えさせてくれる。

『マザー!』でも、結局この世界なんてのは神が女に迷惑かけてるだけの世界かもしれないよ?と言ったような問いかけがされるけど、本作も同じように神はそう大した存在ではないのかもしれないというメッセージを残すのだ。そして子供に対しての暴力が、本作はより過激なので、若干センセーショナルに感じるかもしれない。
あでゆ

あでゆ