Jeffrey

永遠と一日のJeffreyのレビュー・感想・評価

永遠と一日(1998年製作の映画)
5.0
「永遠と一日」

〜最初に一言、覆す事の無いALL TIME BESTの文芸作品の超絶傑作。ギリシャ映画史上最高傑作かつアンゲロプロスのフィルムの中でダントツに好きな1本。ここまでイメージが飛躍するがまま、アンゲロプロスの映画の美と詩情が頂点を極めた映画も後にも先にもないだろう。133分間全てが幸福であり慟哭しっぱなしだった。私はこの映画をその場で2度連続で見た唯一の作品でもある。正に誰も真似のできない独自の境地を切り開いた映画作家の素晴らしい第7の芸術だ〜


本作はテオ・アンゲロプロスが1998年にカンヌ国際映画祭最高賞のパルムドール賞受賞した大傑作で、彼のフィルモグラフィの中で1番好きかつALL TIME BESTに君臨し続ける最高傑作である。多くあるパルムドール受賞作品を観てきたが、本作は唯一パルムドールの権威ある賞を見事に受賞した作品の中でこの映画を超える作品は無いと私個人は思う程好きである。今回、BDで久々に鑑賞したが本当に心の底から傑作だと思える。命尽きるまで見返していきたいと思う。本作はギリシャ、フランス、イタリア制作の作品で、ブルーノ・ガンツが主演している作品の中でも「ベルリン天使の詩」と同じ位彼の魅力が出ている素晴らしい芝居を見せてくれている。小津安二郎と同じで、1人の監督が作り出した作品たちの中で何一つ微妙な映画がない監督は小津とアンゲロプロス位かもしれない。それ程彼の作風は余韻があり、映像美が心に沁みる。

それから「霧の中の風景」から音楽を担当しているエレニ・カラインドルーの音楽は素晴らしいの一言である。後ほどたっぷりと印象的な場面や感想を伝えるが、冒頭のシーンで、主人公の作家が海の見える歩道を歩いているだけのシーンで私は大号泣した。それほどまでにすごい映画である。「ユリシーズの瞳」の時も、「霧の中の風景」の時も、残念ながらパルムドールを受賞したのはオルミ監督の「聖なる酔っ払いの伝説」やクストリッツァ監督の「アンダーグラウンド」(もちろん2作品とも良い映画には違いないが)だが、私はこの2作品(アンゲロプロスの作品)に最高賞を与えたいほど彼の作品が優れており好きである。とりわけこの作品はギリシャが生んだ世界の巨匠アンゲロプロス監督の最高傑作で、ハーヴェイ・カイテル主演でバルカンを縦横に旅する大作で95年カンヌ映画祭グランプリ(審査員特別大賞)を受賞した「ユリシーズの瞳」に次ぐ新作(当時)で、人生最後のー日の心の旅を、全編に情感がほとばしる映像美でつづり、愛の回復を告げるラストシーンで圧倒的な感動を呼んで、パルムドールを満場一致で受賞したやはり長編第11作にして彼の最高傑作だと思う。

子供ごころと美しい情感が「霧の中の風景」を思わせるが、いわゆるストーリーはこびを超えた、ポエジーからポエジーへの飛躍で映画そのものが展開していく純粋で大胆な作り方で、アンゲロプロスの凄まじい映画パワーと新境地を示す傑作として絶賛された事は言うまでもないだろう。この作品は現在から少年の日の過去へ、あるいは、娘カテリーナが生まれて親戚が集まった夏の一日へ、さらには、前世紀の詩人ソロモスがたどったイタリアからザンテ島への帰郷へ、少年を送り届ける雪のアルバニア国境へ、そして、夢のように現れる魂のバスの旅へ、映画はイメージが飛躍するがまま、自由に縦横に展開するのだ。それを現代、北ギリシャのテサロニキを舞台に不治の病を自覚している主人公の作家と、少年の半ばロードムービーが小さな町で誕生する。脚本はアンゲロプロスのオリジナルで、名脚本家グラッエその他が協力して脚本での展開は自由でも、壮大なワンシーン・ワンショット撮影を駆使するアンゲロプロス映画では、雪のアルバニア国境のシーンも、詩人の帰郷のシーンも大掛かりだ。

それを美しい限りない映像に結晶させたのは、「ユリシーズの瞳」に続いての名手ヨルゴス・アルヴァニティスとアンドレアス・シナノスのチームで、アルヴァニティスが冬の部分を、シナノスが夏のシーンを分け合って担当しているそうだ。ポエジーで物語を展開するのに同様に重要な役割を果たした音楽も素晴らしいのと優雅なメランコリーと深い情感を支えるテーマ曲は忘れがたい美しさだ。そして、製作のアンゲロプロス夫人を始め、他の全スタッフのいわば制作人が、この大胆な映画作りを支えていると感じる。いきなり余談話をすると、アンゲロプロス映画に今回初登場したブルーノ・ガンツは、初対面の監督にそのコートも衣装にぴったりだと言われて愛用のアルマーニのコートを着たままで出演したらしい。そこにいるだけで優しさが滲み出す得難いキャラクターでアレクサンド0レを演じた彼の代表的な1本になったと思う。

そして奥さん役はフランス女優で映画と舞台に活躍するイザベル・ルノーで、あのソバージュっぽいパーマの分厚い厚さを持つ髪型がなんとも安心感を放っていて素晴らしかった。そして作家と心の旅をする少年は、本物のアルバニア難民の少年アキレアス・スケヴィスと言う人物で、非常に忘れがたい好演を見せている。脇役ではギリシャ演劇界から起用されたアンゲロプロス映画初出演の俳優が多いが、「狩人」で黒眼鏡の大佐、「蜂の旅人」でゲリラ時代の旧友ニコス役、そして「ユリシーズの瞳」に出演していたお馴染みのニコス・クウロスが、この映画では親戚の白い髭の老人役を演じているのも確認できた。基本的に監督の出演作品に出ている人たちがちょい役でも多く出ていた。そして題名の「永遠と一日」は、アンゲロプロスが脚本を構想中にふと心に浮かんだものだと言っている。

シェイクスピアのお気に召すままで、愛を思う気持ちの長さを問うやりとりで出てきた言葉が、まさに永遠の意味で登場し、これはPaul McCartneyのとある曲の一節にもあって、どちらもフランス語訳では映画「永遠とー日」のフランス語題と同じ言葉になるが、アンゲロプロスはどちらとも関係なく思いついたもので、面白い偶然だと言っていた。ちなみにパルムドールを受賞してギリシャ国内で公開して大ヒットを記録したそうだ。そういえば、イタリアの名監督ミケランジェロ・アントニオーニの1960年の傑作映画「情事」の中にある場面と似ているシーンがこの映画にもあるのだが、島で行方不明になる女性の名前を呼ぶ場面は、その「情事」の中にもあり、しかも女性の名前も同じアンナであり、探し求める男の名前も同じアレクサンドレだった。といっても作品の中ではサンドロと呼ばれているのだが、そういえば今思えばアンゲロプロス作品の主人公の多くに共通する象徴的な名前だな。

でも「情事」の脚本も本作の脚本手がけたグエッラだったし、確かアンゲロプロスはアントニオーニを尊敬しているとも言っていたような気もしたので、そこら辺はやっぱり似てしまったのかもしれない。まだ「情事」を見てない人にはネタバレになるため話さないが、結局アントニオーニの作品とアンゲロプロスの作品のそのあんなを海辺で探すその後の結末はそれぞれに違う。気になる方は不毛の愛三部作の1本目である「情事」をお勧めする。主演のモニカ・ヴェッティが美しい。他の2作ではジャンヌ・モロー主演の「夜」同じくモニカ、ドロン主演の「太陽がいっぱい」もオススメである。前置きはこの辺にして、物語を説明していきたいと思う。黒い画面に白いギリシャ文字とアルファベットで、制作タイトル。続いて、制作協力タイトルが現れる。ここは海辺の家。早朝(少年時代)波音。雨戸を閉ざす、イタリア様式の屋敷裏手の外観。最上階の、わずかに開いた窓辺、カメラ、緩やかにズームアップされる…。



さて、物語は北ギリシャの港町、テサロニキ。作家で詩人のアレクサンドレは、重い病を患い、入院を明日に、今日が最後の日だと覚悟して目覚める。少年の頃、海辺の家から親友達と3人で、島まで泳いで行った思い出の夢。遠くに母の声が響く。アレクサンドレ!…。家政婦のウラニアが別れをつげに来る。妻アンナは3年前に死んだ。アレクサンドレは、愛犬を伴ってテサロニキ港を歩き、車で娘カテリーナの家に向かう。路上で、アルバニア難民の子供たちが、車の窓拭きで群がってくる。警察に追われる少年たち。アレクサンドレはとっさに、黄色いジャンパーの少年を匿い、逃がしてやる。無言で微笑んで、走り去る少年。洒落た内装のマンションで娘カテリーナに、しばらく旅に出る、犬を預かってほしいと頼むが断られる。仕事はどうしたのと聞かれる。全盛期の詩人ソロモスが未完で残した詩集"包囲された自由人"についての本だったが、完成はおぼつかない。

娘に妻アンナの手紙の束を渡す。その1通は1966年9月20の手紙だ。カテリーナの洗礼名の(私の日)、その日にアンナは自分の(私の日)の思い出をアレクサンドレに手紙で綴っていた…。夏の日の海辺の家。生まれたばかりでまだ名前も決まっていない娘のお披露目の日だ。赤ん坊を取り囲む親戚たち。白地に水玉模様のワンピースを着たアンナが、夏の光を受けて美しく輝いている。手紙には、創作活動に追われ、気もそぞろなアレクサンドレを深く想うアンナの言葉が綴られていた。わかっていたつもりのアンナからの、静かだが強く激しい思いが、今くっきりと現れ、アンナの呼びかけにアレクサンドレは動揺する。我に返ったアレクサンドレに、海辺の家を売ったと言うカテリーナの夫ニコスの言葉が飛び込み、ショックのまま、犬を連れて去る。

激しい痛みが襲う。先ほど助けた黄色いジャンパーの少年が、背の高いもう1人の少年セリムとともにトラックで誘拐されるのを目撃して、アレクサンドレは追う、行き着いた郊外の廃屋では、難民の子供たちを買い求める金持ちの夫婦たちの姿。アレクサンドレは少年の代金を払って救うが、自分の明日を思うとそれ以上の面倒を見ることができない。少年を、祖母が住むと言うアルバニアとの国境に行くバスに乗せる。が、少年は離れたがらない。少年が歌うゴルフラ・ムー(私の花)と言う言葉がアレクサンドレの心をとらえる。雪山で、少年はセリムと国境越えをした話をする。霧に煙る頂上の故郷で、不気味に高く長い鉄条網に、アルバニア側から超えようとして生命を断った人々の無数の影が見える。

少年は祖母などいないよ…と告白して2人の明日までの旅が始まる。河辺で、アレクサンドレは少年に詩人ソロモスの話をする。イタリアで育ち、ギリシア独立の時に祖国に帰ったソロモスはギリシャ語を知らず、帰郷して、知らない言葉を金で買った。海辺に、黒いマントにシルクハット姿の詩人ソロモスが、2人の前に夢のように現れる。引き取り手のない犬を預けるためにウラニアを訪れると、息子の結婚の最中だった。アコーディオンの調べに合わせて、花嫁は舞い、やがて花婿に迎えられる。テサロニキ港。日曜日も午後になり、街は人々で溢れている。痛みに耐えるアレクサンドレに、少年は言葉を買う遊びで慰めようとする。クセニティス(よそ者)。アレクサンドレの心は、あの夏の一日へ…。

…青い海に浮かぶヨットの上で陽気に踊る親戚たち。島に向かいながら、寄り添うアンナとアレクサンドレ。しかし寄り添っても、いくら近づいても、アレクサンドレは一瞬のうちにアンナの元を離れてしまう。島に着くなり、アレクサンドレは1人で少年の日の思い出の崖に登っていった。"裏切り者"…。親友3人で名を刻んだ岩ん見つけ、遠く沖を通る船に手を振るアレクサンドレ…。通りかかった医者の挨拶で、アレクサンドレは現実に引き戻される。遠くで人が騒いでいる。海から死体が上がったらしい。少年がいない。少年は廃屋で泣いていた。セリムが謎の死を遂げたのだ。彼は少年と病院へ。死体安置所には、セリムの死骸があった。廃屋で、難民の少年たちがセリムを弔う。アレクサンドレは記憶の迷路で病院に母を訪ね、明日、旅立ちますと別れを告げる。懐かしい母の呼び声が聞こえる…。

…あの夏の日、海辺には突然の激しい雨が降った。夢中でアンナを探すアレクサンドレ。2人はずぶ濡れになったまま強く抱き合い、口づけを交わす。まだまだ話したかった、教えを乞いたかった母は死んだ。少年は、他の仲間たちと一緒に深夜の船で出発すると言う。アレクサンドレは出発までの数時間、少年を誘い、バスに乗る。いろんな年代の人々が乗ってきては去る。コミュニストの学生、若い恋人たち、音楽院の学生たち、そして詩人ソロモスも。バスを降りるソロモスの背に、アレクサンドレはすがるように問いかける。教えてくれ!明日の時の長さを…。真夜中、少年を乗せた大きな船は旅立っていった。明け方、アレクサンドレは海辺の家に来ていた。今日で解体されるこの家。アンナの声が聞こえてくる。

海辺にあの夏の人々がいて、アンナはアレクサンドレを踊りに誘う。幸福な一瞬。彼は、明日、病院に行くのはやめるよ、明日ってなんだ、いつか君は教えてくれた、明日の時の長さは?と問いかける。アンナの答えが声だけで返ってくる。永遠と一日、と…。とがっつり説明するとこんな感じで、私のALL TIME BESTに君臨し続ける映画史上の最高傑作だと思う。何もかも全てが完璧で、今まで会ってきた映画好きな人々に真っ先にお勧めする映画の1つでもある。ここまでイメージが飛躍するがまま、アンゲロプロスの映画の美と詩情が頂点を極めた映画も後にも先にもないだろう。133分間全てが幸福であり慟哭しっぱなしだった。私はこの映画を2度連続で見た唯一の作品でもある。



さて、ここから個人的に印象深かった場面などを紹介していきたいと思う。まずこのような美しい映画のファート・ショットっていうのは、監督それぞれみんなこだわりがあると思う。もちろんアンゲロプロスもこだわったファースト・シーンを作ったと思うが、私が感じるのは、なんてことのない冒頭の下りだったと思う。白い一軒家を捉え、子供の声で思い出が語られるファースト・シーンは、徐々にカメラが1つの窓にゆっくりと前進していき、Eleni KaraindrouのKaraindrou: Eternity And A Day-2. By The Seaが優しく流れるのだが、何てことないその映像に感動させられてしまったのだ。細やかに波音が聞こえ、静かに家の中を歩くボーダーの服を着た少年が親友と海に入るロングショット、冒頭から余韻だらけでたまらない。

窓から見る港の船の数々、汽笛、レコードから流れる音楽、向かいの部屋からも聞こえる同じ音楽、そして先ほども言ったが、ここでガンツ演じる作家が犬を連れて歩道を歩くロングショット、なんとも美しいワンシーンである。そして印象的なのが、その後の場面で、子供たちが停車の車に向かって掃除(窓拭き)をする場面だろう。その間パトカーのサイレンの音が鳴り響き、長回しで捉えられる。そしてカメラは真っ正面で車の中を捉えているが、警察官たちに窓ふきの少年たちが追われているのをとらえるために、カメラは一旦浮上する。そして次のカットで車内の固定カメラから外を眺める演出は素晴らしい。黄色のジャンパーを着ているアルメニア難民の少年が微笑む場面も印象的である。そしてここからが凄くこの映画の画期的なところである。

作家が娘の家に犬を預けに行こうとして、母の手紙を娘が読むと途中で娘の声から母の声で朗読され、作家が不意にバルコニーのカーテンをスライドした瞬間に過去へと戻り、作家の姿は過去の姿ではなく現在の姿のまま、白地の水玉模様のワンピースを着た3年前に亡くなった奥さんとの再開の場面へと変わるのだが、これが素敵であるし印象的な演出であるなと思った。普通、過去の話になれば過去の姿で現れたりすると思うのだが、この作品は老いぼれた姿のまま登場するのだ。そしてアルメニア難民の子供が誘拐する場面に遭遇するシーンなのだが、実際にギリシャではこういった誘拐は横行しているのだろうか。廃屋で並べられて、金持ち夫婦たちに買われそうになる子供たちの場面は何とも言えない気持ちになる。

しかもここの場面アンゲロプロスっぽいなと思ったのが、誘拐犯に金を渡す場面とか一切互いに会話しないで、ドラム缶の上に財布の中にある全財産を渡して、黙って去る場面だ。ここを敢えて会話なしにしたのはすごく良かったと思う。んで、腹ごしらえのために、サンドイッチを買いに行く場面で、その誘拐犯がトラックの荷台に乗って、2人を見ている場面をもう一度ここで出す所も面白いと思った。そして国境沿いまでフォルクスワーゲンの車でやってきて、少年を送り返そうとする場面で、少年のセリフの膨大さと固定ショットの長回しを見ると、かなりすごいなと思う。そして花嫁の野外結婚式の場面も印象的だ(ものすごい長回し)。ここでまさか家政婦がもう一度登場して、息子の婚礼式を挙げているとこに作家が犬を預けに来るとは思いもしなかった。

ずっと犬が引き取り手見つからず困っていて、劇中見ながら結局この犬は誰に引き取られるのか頭の隅に置きながら見ていたが、まさか家政婦に行くとは思いもしなかった。そしてまた過去に戻り、ヨットの上で妻と抱擁する場面など、風に靡かれながら会話したり、美しい海のシーンなど印象に残る。なんか、所々イタリアの映画監督ダヴィアーニの「カオスシチリア物語」を彷仏とさせるな、海の場面とかは。そしてセリムを弔う場面のシーンは、タルコフスキーを彷仏させるような水たまりだったり火がある神秘性が写し出されるところも素晴らしく良かった。そして夜、2人がやっぱり離れられず、バスに乗るシーンで冒頭に流れてきたEleni KaraindrouのKaraindrou: Eternity And A Day-2. By The Seaを長く流しつつ、2人の笑顔がクローズアップされる場面は本当に素敵である。そしてこの後起きるバスでの様々な出来事、ほぼクライマックスにここまで印象深い演出があって嬉しいの一言である。

そして、1人運転席に座り、青信号になっても発車しない車の中で彼がずっと何か思いつめているのを固定ショットする場面、そして本作最も目頭が熱くなるクライマックスのダンスシーン、このラストを見る瞬間にこの映画見て良かったとさらにつくづく思った次第だ。にしてもやはり音楽の素晴らしさが出ていた映画だなと。この作品は、面白いことに、主人公の作家が、警察の狩り込みからアルバニア難民の少年を助け、その次は誘拐ギャングからも救ってあげる。そして真夜中まで共にするのだ。そんな中、3度回想の中に入り込む。そうした中、仕事に忙しくしていて、妻を慰れなかった自分に対して、情けを感じている彼が、3年前に亡くなった妻のことを思い、彼女が残した手紙に書かれたあの思い出の夏の日を呼び戻して、やり直したいと思う。死に直面しての切実な願望が現れ、激痛に襲われながら、明日の入院を控えた最後のー日に、30年前の自分を愛してくれた妻のいるあのー日とを、作家は行き来することになるのだ。この画期的な演出とテーマに驚くばかりである。

驚くのはそれだけではなく、先ほども述べたが、過去の夏の日に現れる作家は黒いコートをまとった白髪混じりの老人のままで登場するのだ。それは当時の若者の姿に戻る事はなく、妻との楽しい体験とは別に、さらに過去へと追体験する。それは1人で丘の上に登って、友人2人と署名した石を探し出し、沖を通る白い客船に向かって大声で呼びかけてをする場面だ。それは冒頭のシークエンスにも現れる。そこで奥さんからは裏切り者と恨みの声が聞き流されていく。この作家は自らの小さい思い出にしがみついているのだ。だから現在の場面で、アルバニア難民の少年を、危険から遠ざけてやろうとするのは、自分の少年時代の発露と見ることができる。少年の保護者的存在でいたいのかもしれない。だから港で変死体となって発見された死体置き場に運ばれたもう1人の少年に、彼は自分の姿を重ねて見ていたのだ。

だから必死に少年を故郷に帰らせようと奮闘する。あの亡霊たち、国境越えるために死んでしまったあのおぞましいシルエットのある雪道の場面は、アウシュビッツ収容所の如く不気味な検問所を見て、逃げるのだ。この作品を見た映画評論家の河原畑寧氏はアレクサンドレは、幼児性を捨て切れない男だと言っていた。半ばその少年と男は孤独感を恐れており、少年の言葉によって、作家は過去の自分に出会い、家族の絆を再発見することになる。そして民衆から買い集めたと言う伝説の国民詩人であるソロモスのエピソードとアンナの手紙の中の過去の話が最終的にクライマックスの少年が船出する未来へと導いてくれるのだ。いわゆるつながりをこの映画は描いている。そしてバラエティー豊かな夜のバスの旅(2時間)がとても私は好きな場面である。

いくつかの乗客のエピソードが入り込み、その中でもミュージシャンと思われるトリオが乗ってきて演奏を始めるのだが、それが徐々に本作の映画のテーマ曲へと変わる場面はなんとも素晴らしかったし、最終的にこの物語の縦軸になっていた詩人ソロモスが乗ってくるところは驚いた。まさかそんなサプライズがあるとは…と思いつつ見ていくと、作家は彼に駆け寄って教えてくれ、明日の時の長さは?と尋ねるのだ。しかしながら彼は答えず、最終的にその答えを聞き出すのがアンナの口からである。ここもなんとも素晴らしかった。赤い旗を手に掲げながら入ってきた青年が眠りにつく意味合いが少しわからないのが残念である。誰か知っている人がいたらぜひ教えて欲しい。それから、監督曰く、今回の登場人物(少年の名前)に名前をつけなかったのは意図的とのことだ。劇中で、アルメニア難民の少年は名前で呼ばれる事は確かになかった。それと少年たちが、仲間であるセリムの死を悼みおくるシーンが印象的だと言ったから、そこで少年が口にする"おお、セリム!"は彼が自発的に発言したそうだ。

きっと名前をつけなかったのは、名前=アイデンティティーと表現したくなかった監督の意図的な部分が出ていたのではないだろうか。あくまでも少年は車のウインドウを拭く係でスクリーンに現れたし。しかしながらそこはすごく象徴しており、ヨーロッパでは、あのような子供たちがいっぱいいるのも確かで、かつての東欧諸国のイラン、イラクなどから来てる子たちが多かったのではないだろうか。それから他にも印象的な場面があって、これはアンゲロプロスの作品を多く見ている人しか気づかないと思うのだが、夜、作家と少年がバスに乗った時に、バスが移動した瞬間に後から黄色い防護服のようなものを試着した自転車の3人が後に続いて登場するシーンがあるのだが、それは彼の過去の作品の「シテール島への船出」「霧の中の風景」「こうのとり、たちずさんで」にも現れめいた。これはきっと何かのメタファーなのかもしれないが私には答えが導かせられなかった…。

それにしてもこの作品ほんの一瞬小津安二郎の「東京物語」の原節子を演じる女性に、母親が死んで、みんなが知らんぷりして自分の生活にすぐに戻ってなんだか嫌な感じだわと話す場面を見て、本作の父と娘のやり取りで、父の思いを聞き取れない娘の姿が一瞬重なってしまった。娘のカテリナにも人生はあるから仕方ないが、それが思いっきり小津安二郎の作品に似ていた。それと今回久々に見返してわかったことなのだが、この映画韻を踏んでいるなと思った。何が言いたいかと言うと、死体安置室の少年の遺体から今度は作家自身の母親の死につながっているし、アレクサンドレが詩人ソロモスのことを話すと、詩人ソロモスのエピソードが始まるし、そういった2つの時を同時に進行していくというか内面が徐々に構成されていく感じが面白いなと思った。だからバスの中では音だけが強調され会話が一切なされないのは、少なからず夢の中と言うことなのだろうか…そうした場合あのアルメニアの国境の場面も白昼の悪夢とも見て取れる。



いゃ〜、繰り返し言うが、やはりこの映画はものすごい構成によって作られているなと思う。なんといったってー日を描いているにもかかわらず時間的に離れたエピソードをバランスよく配置して、ここまで多様な手法で展開する物語は多分これだけだろう。しかも半ばドキュメンタリータッチで映される(家政婦の結婚式)場面もあるし、詩的で幻想的な雰囲気も漂わせるのだ。アンゲロプロスはものすごく丹念にこの構成を作っている。何もかもが一貫しており、朝から翌朝までと言う時の流れを無駄なく整然として仕上げている。本当に心の底からあっぱれだと思う。しかもこの映画現在と過去でコントラストの効果も違う。例えば、現在のパートでは、基本的に霧が立ち込め、暗い感じの曇り空がうつされるが、過去のパートでは、鮮やかな、青い空と青い海に白い砂浜で映されるのだ。

ギリシャを舞台にした映画ではしばしば見慣れた風景である白い砂浜、美しいコバルトブルーの海のシーンはあるのだが、アンゲロプロスの作品にはまずなかったのだ。子供が重要な立場で出てくるのは過去にもあったが、この作品はかなり重要な立ち位置にいた。なぜなら、主人公の作家の心の寄りどころだからである。彼は少年に依拠しているのだ。夏のまばゆい日差しとともに過去へと繰り返し入り込む作家と、現代にしかいられない少年との対比も印象的であるが、既にいくつもの傑作を揃えたアンゲロプロスがここまで重く厳しい印象を作り出したこの作品はやはり彼のフィルモグラフィの中でも最高傑作として特別な位置として良いものだと考える。アンゲロプロスは、常に政情不安定なギリシャや周囲の国々における歴史の悲劇、自由や尊厳を求めながら圧殺された人々、戦争や国境や国家権力を引き起こす苛酷な状況について、神話的な荘厳すら感じさせる厳しく深い眼差しで見つめてきているなと感じる。


映画評論家の石原郁子氏は、この国家や世界や歴史を見遥かす神の如き巨いなる映画を作る人は、同時に、小さな個人と個人との間に結ばれる愛を信じ、それに希望を託す人だったと言っていた。確か彼女アンゲロプロスがプロモーションで来日した際に、記者会見会場にいた評論家だったと思うが、奥さん役の女優を選んだのが自分の妻に似ていたからといって深い感動を呼び起こしたとも言っていた。それにしてもこの作品の過去と現在、夢や幻想と現実の交錯や並行は、映画の中に繰り返し現れるが、それは単に技巧の素晴らしさとはまた違うのである。上映時間2時間14分は、主人公の朝の夢と目覚めから翌日の朝までの、およそ丸1日24時間をとりあえず作中時間としているが、その中に織りなされれている人間的時間の多様性と豊かさは、過剰とさえ思えるほどうまく機能している。まだ見てない方はお勧めする傑作だ。



アンゲロプロスが亡くなって今年で10年。2011年3月11日に事故死と言う形でこの世を去ってしまった。その1年前の2010年3月11日日本でも多くの死者を出した自然災害によるものの出来事もあり、3と11と言う数字はあまりにも日本人の僕にとっては忘れられない数字である。アンゲロプロスの突然の死は、彼の三部作の2本を完成して3番目にとりかかったところ突然起きてしまった。クランクインから1ヵ月もたたない時に交通事故にあってしまったのだ。彼の映画を通してギリシャで歌われた歌をたくさん耳にした。音楽が彩る世界、子供たちが映り込む世界、幻想と現実の間の世界、水が彩る世界、様々な彼の演出を今見返すといろいろとノスタルジックに感じる。

今彼の作品全て見返すと、やはり信頼する同じスタッフに支えられてきているなと感じる。脚本家にしろ撮影にしろ録音担当にしろ、美術、音楽その他、大体スタッフロールを見ると同じ名前が並ぶ。特にクラシックの技法から出発した素晴らしいメロディーメーカーであるエレニの存在は計り知れない。よくもまぁこのような稀有の作曲家と出会ったなと思うのである。アンゲロプロスは息の長いワンショットで表現する演出が印象的だが、やはり溝口健二の映画を鑑賞し、色々と自分なりにアレンジして、勉強し咀嚼したんだろうなと感じる。余談だが、仏のル・モンド紙に寄せたブルーノ・ガンツの手紙を読むと、アルメニア難民の少年と一緒に入ったカフェは、マルチェロ・マストロヤンニとジャンヌ・モローとハーヴェイ・カイテルなどが撮影でこのお店に来てたらしく、ガンツはとても感動したと言っていた。それから、太陽を望まない監督が、灰色の空と海を分ける線はあってはならないとのことで、撮影を秋に延期して、2週間最初撮影しただけで中断したらしい。


これがプロフェッショナルなのだろう。それから確かフリーライターの佐藤友紀氏がアンゲロプロスのインタビューをした際に、「ユリシーズの瞳」を撮影中、すでに役に起用していたジャン=マリア・ヴォランテの急死をきっかけに、今作をとるに至ったと動機を話していた。それまで撮影で毎日一緒に過ごしていたから、すごい衝撃だったとのこと。そして、あとー日しか生きられないのなら、その日、人間は何をするのだろうと考えたそうだ。これ当時のプレスシートに載ってたのかアンゲロプロスの書籍を読んだときに書いてあったのかちょっとあやふやだが、とりあえず日本で発売されている彼の書籍はわりかし読破しているつもりなので、間違いがないと思う。この映画をまだ見てない方は絶対にお勧めする。まるで時間が呼吸するかのようにワンシーンごとに丁寧に作られ、あらゆる空間を時間に、時間を空間に与えている傑作であり、監督の国境に対する思いが詰まった名画である。


あぁ、傑作。私はアンゲロプロスに依拠したい…
Jeffrey

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