永遠と一日の作品情報・感想・評価

「永遠と一日」に投稿された感想・評価

難解であるため古典と同様、採点不可
難民の少年と出会い人生最後の「旅」の最中。亡き妻を回想する。言葉は永遠だよってことなのかな。
an0nym0us

an0nym0usの感想・評価

4.0

このレビューはネタバレを含みます

観賞後は特典にあるテオ監督の対談も必見ですね。フランス語で話してて笑ったw
ソルボンヌを出てるんですもんね。

詩的な言語表現と映像表現で綴られる…

『永遠と一日』

二度と三度と現れるフェンスのシーンや、崖の上からの船…随所に現れる人生観の表現に、監督の感性を感じさせてくれます。

そこから自分で色々と考えるのが楽しかった。

コップの水と海を見比べてみたり…
コップを海に投げ込んでみたり…
コップって何なんだと弄り倒してみたり(笑)

私は『永遠』ってのは長さや大きさというスケールで測るものではなくて『在り方』なんだと思うんですよね。

それは『不変』である…ということ。

例えば…流れ続ける時間。
万物に対する、時間の『在り方』

監督はそれを止めて、見せようとした。

私は、ものすごく遠くから見ると、実はそれも泡沫だな…とも思えてきました。

私にはたぶん…泡沫夢幻な捉え方が性に合ってるんだと思います。

泡の中にあった空気は…泡が弾けて消えたら、外側の空気と混ざって稀釈されていく…とすると、エントロピーの増大の極致は? 世界に溶けて混ざってくイメージ。

いいね…混沌としてるのが心地いい。

仮定の話でしかないけれど…

言葉が無くなったら…
誰も何も取り戻せなくなったら…

全てが弾けた後で『無』に帰すなら…

最後の最後に到達する収束点として…

『永遠』が現れるかもしれない。

誰もそれを知覚できない領域で。

私は優しくない人間なんだわ(*´-`)

それに比べて、テオ監督の包容力!
希望とか、歓びとか…優しさを感じる。

否定される事で安心したい訳じゃない。
それは不変ではなくなるから。
あるがままである事で、より不変に近い場所に立つ事ができるんだもんね。

不思議と穏やかな気持ちにさせてくれる。

完全に個人的な表現だけど…
翡翠みたいな作品(謎すぎ?w)
ザン

ザンの感想・評価

2.8
何だか伝えたそうなことが数多くあってもっと焦点を絞ればすっきりするのにと思いながら着いていけずにダラダラ見た。
Marisol

Marisolの感想・評価

4.8
とても良い作品だった。これまで見たアンゲロプロス作品の中で1番好きかもしれない。『ユリシーズの瞳』のように、過去と現在をいったりきたりするのだけれど、全体的に優しくて穏やかな雰囲気が流れていた。他の作品より???となることは少ないのでは。「言葉」をテーマにしているところも個人的にすごく好みで、色あせた場面とギリシャ的な青と白の鮮やかでノスタルジックな場面が言葉でつながるのも面白かった。初めて見たときはなんとも虚しく思ったけれど、もう一度見たら、希望に満ちた感じとか、力強さをより感じた。自分にとっては文句なしに素晴らしい作品だった。

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明け方の星が地球と別れを惜しむ朝
一瞬古代都市が海の上に出てくる
その時すべてが時が止まる

時って?

砂浜でお手玉遊びをする子供
それが時だってさ
まる

まるの感想・評価

4.6
序盤、動いているカメラが
コーヒーを飲むときに
ちょうど真ん中の構図になった時に
凄く気持ちよかった。

続けてカメラワークが
最高の瞬間がたくさん。
ガラス越の撮影もうまいなと思う。

視せたいものを
詰め込み過ぎた感があるので
霧の中の風景とどちらが良いか
悩ましいけれど
テオの中で個人的にトップを争う作品。

バスの中の二人の表情が最高。
櫻

櫻の感想・評価

-
私たちはどこから来て、どこへ還っていくのか。いつも霧がもやもやと目の前を霞ませて、行く手を見えなくさせる。私の足はどこへ向かっているのだろう。あの国なのか、それとも君なのか、あるいは、生か死か。

少年よ、怖いのか。幾分年を重ねた老年になっても、きっと変わらないそうだよ。少しだけ、一緒に。

私たちはいつも彷徨っているようだね。行ったり来たり、流れたり止まったり。光の当たる場所に居たあの頃は、とうに過ぎていってしまった。光のもとにいる君は、いつも私の中で眠っていて、ふと目を覚まして私の前に来てくれる。風のような愛を言葉にして、囁いてくれる。ほら、またあたたかな風が吹いてきた。

どこに行ってもここではない気がしてしまう。私の言葉は、彼らには届かない。いつかの光は消え細り、あたりを闇で染めてしまう。少年とも別れなければいけなくなった、だって一緒には連れていけないんだ。すぐ近くの船が出港してしまった。私だけが取り残されてしまったのか、私が先を走りすぎたのか、もう分からなくなってきてしまった。霧の中へ吸い込まれていこう。

そう、終わりはいつもこんな風だよ。重くしないでくれ、もう何もいらないんだから。あの橋を渡った先で、君は待っていてくれる。
カラン

カランの感想・評価

5.0
永遠について考えてみる。

永遠というのは永遠なのだから、全てを含んでいるはずである。永遠について今私は考えているのだが、この私の今の思考は、私の考えた永遠に含まれていたのだろうか?私が今について考えるとき、その今の外部に私はいるはずである。すると永遠について考えている今は、永遠の外にあるのか?ゆっくり考えたほうがよさそうだ、私はよく計算を間違えるから。

例えば、何名様?と聞かれて、数えてみて、あれっと数え直した経験がある。私と君と彼と彼の恋人と彼女と彼女の友達で、自分を入れたら、「7人です」 あれ? そんなにいたか? もう一度数えると私の目の前に5人いる。私の目の前にいないのは私。だから合計で、7人と私は数えてしまったのだ。本当の私は数える者なのであって、数えられる者なのではない。私は除け者でなければならない。この映画の主人公アレクサンドレが呆けた老母に向かって、「なぜ私は一生、よそ者なのか?ここが我が家と思えるのは、まれに自分の言葉を話せたときだけ。・・・そんな稀なときにしか自分の足音が聞こえない。」と嘆いていた。私は私ではないし、私は私を数えることはできず、私には私の足音すら聞こえないのだ。

永遠の話に戻ろう。私の考えた永遠に、その私の思考は含まれていないはずだ。永遠が永遠ならば、永遠の外の時間などない。だから、『永遠と一日』という表現は恐ろしい矛盾をはらんでいる。しかし、《皆んな》というのが目の前の友人たち +1 であったように、実は永遠(E)とは、永遠と永遠について考えているこの今(+1)のことだと考えてみよう。したがって、

E = E+1

と、今や、表すことができるだろう。しかし・・・私はよく計算間違いをするので、疑いたくなる。この新しい永遠(E+1)には、[E+1]について考えているこの今(+1)は含まれているのか?もし、含まれていないとすると、

E = [E+1]+1

と表せばよいだろうか?しかし・・・そうすると・・・

E = [[E+1]+1]+1・・・?


こんな数式は私の望んでいるものではない。映画に戻ろう、冒頭、幼年期を過ごした海辺の家の回想から始まるが、幼いアレクサンドレと、その友達が海に沈んだ海底都市が浮かび上がる夜明けの瞬間の話をしている。海底都市が明け方に出現するとき、「時が止まる」らしい。夜明けスキャットが聞こえてくる。ルール ル ルルー、ルール ル ルルー、愛し合うその時に、この世は止まるの、時のない世界に二人は行くのよ・・・

さきほどの「よそ者」についてのモノローグを全体的に引用しておく。

「お母さん、どうして願いは願い通りにならないのでしょう?なぜです?なぜ私たちは希望もなく、腐ってゆくのか、苦痛と欲望に引き裂かれて。なぜ私は一生、よそ者なのか?ここが我が家と思えるのは、まれに自分の言葉を話せたときだけ。自分の言葉。失われた言葉を再発見し、忘れられた言葉を沈黙から取り戻す。そんな稀なときにしか自分の足音が聞こえない。」

私はいつも数えている。まるで強迫神経症の強迫観念のように、数え、言葉を探し続けてる。しかし残念なことに脅迫神経症者は自分の言葉を創り出すのは得意ではない。そうだ、あの詩人が、私の真実を言い当てる言葉を知っているはずなのだが・・・。この映画では、知っているはずの主体となるのは、例のイタリア生まれだがギリシャ語をギリシャ人から金を払って教えてもらい、ギリシャ独立を祝福する詩を書いたという詩人、ソロモスである。こういう真理を想定された主体なる者の登場は、アンゲロプロスでは同じみの展開であり、『ユリシーズの瞳』では、バルカン半島で初めて映画を撮った、無垢なる眼差しを持つはずのマナキス兄弟という形で登場していた。次は妻の手紙の引用。

「本のことしか考えないのね。
いつになったら二人になれるの?
あなたが飛び去らないように、ピンで刺し止めたいほど大事な時だったのに・・・
考えているあなたが怖い。
その沈黙に割り込むのが怖い。
だから私は体で、自分は傷つきやすいのって伝えたのよ。それが私の唯一の方法だった。私はただの恋する女なのよ・・・」

いつになったら二人になれるのか?これはいつになったら二人が一つになるのか?という問いなのであり、すなわち、いつになったら私は数え終わり、家に帰って来てこれるのかという、オデュッセイア的な問いなのである。この今は亡き妻の手紙においても、今日が私の人生の最後の一日にもかかわらず妻に責められている。この罪悪感の原因は何なのか?私が時を数えて、永遠を捉え、私が私を言い表す言葉を見いだそうとすることの、どこに罪があるというのか?妻が私を責めるのは、私たちの娘が生まれたあの海辺の家でのお祝いの日のことを幻想したときもそうだった。

私は妻の罵声を振り切って、山を登る。それで全体を見渡し、全てを見通したいのだ。幻想の中の幼年期の海辺の家から、今に戻ると、少年が消えている。誰かが、海に落ちた。少年の同胞の子が溺死した!

この少年は、アルバニア系の不法移民で、路上で人身売買の犯罪集団から救った子供だった。今日は私の最後の一日だから、この子に金を渡して国境までタクシーで送らせて、犬のように追い払おうと思っていた。しかし、子供が嫌がるので、追い払えないうちに、いつのまにか寄り添い、いつのまにか、まだ行かないでくれ、そばに居てくれと嘆願までしてしまった子供だった。この子供たちの正体は?

この不法滞在の移民の子供は、私、なのだ。私はよそ者で、私は数に入れてもらえない者で、安らかな居場所を見つけられていないのが、私、なのであった。私とは、永遠の外で、永遠に張り付いて、いつまでも付いてくる、+1、なのであった。+1がいつまでも続いたように、子供たちは複数であり、永遠の集合を閉じさせてくれない。子供たちはしつこく私の計算を終わらせないが、私の計算に希望をくれる存在でもある。

ここでもう一度、最初の計算に戻ろう。

E = E+1

この式はどこかおかしい。なぜ、EがE+1に等しいのか?E = [E+1]+1はもっとおかしいし、E = [[E+1]+1]+1というのは、さらにいっそうおかしい。まるで、Eから、私は永遠に離れていっているようだ。アルバニアの国境まで少年を送って行ったとき、霧が立ち込めた検問のフェンスに子供の影のようなものが見えた。E = [[E+1]+1]+1・・・+1+1+1・・・、子供の複数化に私の永遠の計算は止まらなくなる。これは、考えてみれば、永遠に一日を足した初めのときから、おかしいことだったのだ。恐ろしいことに、フェンスの子供たちは動かない。死んでいるのだ。国境の検問のフェンスで、見せしめに吊るし上げられた死体が風で揺れていたのだった。E = [[E+1]+1]+1・・← -1-1-1-1-1・・・

幼年期への回想と子供との出会いは、子供の複数化によって私の永遠が拡大しながら、いつのまにか私から遠ざかっていくムーブメントであった。今や、子供たちの死は、私の永遠を収縮させ、私を永遠に近づけるのだろうか。寄せては返す波打ち際のように、私の永遠が膨らんだり萎んだりして、私は永遠から遠ざかったのか、近づいたのか?子供たちとは生者なのか死者なのか?私とは+1なのか-1なのか?

下の引用はエンディングシーンから。汀で、海を見ながら老人は一人、言葉が溢れ落ち続ける。誰もいないのだから。波が高くなって、老人の頭の辺りにまで波が来たかのように、ミディアムショットから肩ごし、頭ごし、とカメラがせり上がっていき、老人は波の中にいないのに、波の中に溺れていく。この穏やかで明るい波が狂ったような高まり、老人を覆っていくのは、夏目漱石の『それから』で、代助の狂気という火の車がぐるぐる回っていくラストのような圧力を感させるシークエンスである。そして狂ったようなカメラに、老人の1人対話は劇中でもっとも正気でない言葉へと変貌する。はじめてこの男が詩人であったことを意識する瞬間だ。以下、老人と波だけしか画面には映っていない世界でのことだ。

「アンナ、明日、病院に行くのはやめるよ。明日の計画を立てよう。・・・いつか君に聞いたね、明日の長さは?って。君の答えは・・・「永遠と1日」・・・聞こえない。何と言った?・・・「永遠と1日」・・・アナ? アナ・・・私は今夜向こうへ渡る。言葉で君をここへ連れ戻す。

全てが真実で、全てが真実を待っている。

私の花、私・・・よそ者・・・とても遅く・・・私の花・・・よそ者。・・・」





作家の池澤夏樹が、テオ・アンゲロプロスに、この映画は希望に満ちた作品だと解釈していいのか?と恐る恐るたずねると、アンゲロプロスは、少し言葉を詰まらせたようにも見えたが、ゆっくり言葉を手繰り寄せながら、それは正しい解釈だ、と答えていた。アンゲロプロスは優しい人だと思う。
y

yの感想・評価

4.1
名声を得て、娘もいる有名な作家が、自宅に戻ることはないであろう最後の入院を決めた。
最後の入院の予定を、娘にも告げられない距離感。犬を預かってもらうためと手紙を渡しに娘夫婦宅に行くも、犬の引取りはかわされ、娘に譲渡した思い出の家は「売却する」と聞かされる。

家政婦さんにも最後の日に「終はいつもこんなものだよ」と平気そうに言ってみたものの。
1日一緒に過ごした不法滞在の少年には
「こわい、一緒にいてくれ!」と弱音、本音を言って抱き合った。
自分の居場所がないところは二人は共通だったのかもしれない。といっても少年のほうが比にならないくらい過酷な居場所のなさですけど。

色々、共感できた。

少年と違って、主人公は少年時代は少年らしく育って、社会的にも成功して、妻に愛されいい人生。とっ散らかしたままというのも共感(主人公は作品も残しているから形にしたものもある。)

最後のバスの中にでてきた19世紀の詩人も、人生はいいものと言っていましたが、死や人生について私ももっと言葉を聞きたいなと言う気持ちにさせられた。

少年と主人公の関係が素敵だった。
にっこり笑う少年、サンドイッチを自分で勝手得意げになる可愛い少年。友の遺品を燃やして悲しむ少年・・・
いなくなっても何をしてもほおっておけない主人公。
あの1日、お互いが必要としていた。
可愛くもあり、厳しい顔もできる少年、適役でした。
船で出て行ったけど、いい人生を送っていくといいなと思った。

詩的な表現が多くて、分かりにくいと感じるストレスを最初のうち感じた。
kei

keiの感想・評価

5.0
アンゲロプロスのなかでもわかりやすく監督自身この作品に関しては本気で作ってるなと感じた。回想シーンに入るとことか結婚式のシーンとか面白い。いろいろと映画的工夫や遊びがなされている。ヨーロッパの風景ってずるいよね。絵になるし。
見て癒やされた。暇な時間に見る→途中でやめる→というダラダラした見方で、何日にも渡って5回程、最初から最後まで見た。学生の頃アンゲロプロスの中で好きだった『永遠と一日』。
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