名倉

聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディアの名倉のレビュー・感想・評価

3.8

タイトルにある「聖なる鹿殺し」の意味を調べたところ、ギリシャ悲劇の「アウリスのイピゲネイア」を参考にしているらしいです。



この監督はギリシャの方ですが、確かに言われてみると今回の映画はギリシャ神話の様な仰々しさ、異常なほど引いたカメラアングル、壮大で不気味な効果音、家族間の関係性、もしかしたらキムの唄やアナのSEXシーンのポーズもそういった点でギリシャ神話の雰囲気を醸し出す一部分になっているのかもしれません。



今作でマーティンの父親の思い出やスティーブンに対する恨みの強さなどは映画内で一切語られることはありません。そもそもマーティンの感情はこの映画では読み取れない様になっています。重要なのは、父親を奪われたマーティンが復讐する為にスティーブン達家族を危機に追い込む絶対的な存在。この“存在感”が重要であり、マーティンはこの映画の中で単なる“死のメタファー”として存在しています。監督も、「マーティンの詳しい過去についてはあえて触れていない。そこを描けばこの映画は全く別のものなっていただろう。」と仰っています。



更に「人間の性がどんどん暴かれていく為に登場人物たちにプレッシャーをかけた。人があり得ない選択をしなければいけなくなる状況を設定した。全てを追い込んだ。」とも仰っています。追い込まれた家族が自分を守る為に自己防衛本能として他を犠牲にしようとする様は、最高に歪でこの映画の醍醐味とも言えます。



最後のルーレット場面で運悪く息子のボブがこの試練の犠牲になりますが、あれは偶然ではなく必然の様に感じます。スティーブンにとって一番“不必要”な存在は誰であったか。父親として、一家の主として自分を一番崇めていなかったのは誰か。将来自分の地位を脅やかす存在は誰か。全く規則性のない彼の匙加減でどうにでもなるあのルーレットで犠牲になる人物は始めから息子のボブに決まっていたのではないでしょうか。キムやアナの様に椅子から降り、頭を垂れ、奴隷の様に振る舞う事が生き残る術として正解だったと言い切るこの映画は、まだ幼く純粋なボブには酷な現実だったのかもしれません。



この不条理が曲がり通ってしまうヨルゴス・ランティモス作品が私は大好きです。次回作も楽しみです。
名倉

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