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君の名前で僕を呼んでのinuのレビュー・感想・評価

君の名前で僕を呼んで(2017年製作の映画)
5.0
私は今年(2018年当時)大学生になり、たくさんの映画を観た。名作という名作を観あさった。映画を観ることは世界を知る門戸を叩くことであり、そこから得た関心をさらに拡大させていくことに心地よさを感じる。年の瀬を迎え「今年のベスト」がどの分野でも決まるなか、私も今年観たなかでのベストを決めようと思った。すると、浮かんだのは私の生涯で最もすきな映画になった作品だった。いわばオールタイムベストである。

「君の名前で僕を呼んで」(原題: Call Me By Your Name, 2017)
今年日本公開されたこの映画に今年巡り会えたことを私は本当に嬉しく思う。


愛について

水のような映画。滴る雫のように輪郭が曖昧で、移りゆく美しさに魅了された。この映画は"ブロークバック・マウンテン"(2005)や"モーリス"(1987)のようにしばしばいわゆるゲイのセクシュアリティの文脈で語られるが、それとは切り離して考える必要があると感じた。作品に登場する古代ローマの彫刻や知的な会話からは、まさに古代ローマ時代の奴隷に労働を任せ、知的な思索に耽ける閑暇に満ちた生活が想起される。この文脈は映画に含みを持たせているように思った。アプリコットの語源等の学術的な会話から、劇中のエリオとオリヴァーの愛が単に性的な衝動や時の気の迷いのようなものではなく、古代ローマのような愛知(フィロソフィア)にも似た相手の考えることに及ぶまでの深い愛であることがうかがえる。この映画はほかの同性愛を描いた作品とは大きく異なり、ゲイとしての葛藤はないし、ある意味当たり前のように男同士が性的な関係を持つ。そして、エリオは女性とも関係を持っている。今まであらゆる文脈で同性愛の葛藤を主題とした映画や書籍は発表されてきたが、それらとは一線を画してジェンダーそのものが曖昧で、区別をしないことを前提とした世界観というのは理想的なもののようにも感じた。

存在について

私にはこの映画は存在についての映画であるようにも思えた。題にもあるようにエリオとオリヴァーは一夜を共にするシーンや最後の旅行のシーンにおいて、互いに自分の名前で相手を呼び合う。これは二人の境界を曖昧にしていて、とても奇妙に思われる。なぜ、互いを自分の名前で呼ぶのか、不思議であるし、説明がなされるわけでもない。不思議な気持ちで観ているとエンディングにエリオの父親がエリオに語りかけるシーンがある。ここで父親は、彼に対してオリヴァーとの愛を時の気の迷いや過ちとして忘れないように諭す。そこには父親自身の後悔の念も含意されている。ここにエリオと父親の間の境界線をも曖昧にさせる効果を生んでいる。すなわち、エリオとオリヴァー、エリオの父親は同一人物のようにも感じられるのだ。原作アンドレ・アシマンは実体験ではないと断言するものの、大学教授の息子であるエリオの立場も、研究員としてのオリヴァーの立場も、大学教授であるエリオの父親の立場もすべて作者自身の経験であるのだ。劇中にはハイデガーの「存在」についての問いが登場する。ここには何かしらの意図があるように思った。登場人物の輪郭の曖昧さと、存在についての問いはとても興味深く、不思議に感じた。

エリオの成長

17歳のエリオは大人になることについて迷いがあるようなこれまた子どもと大人の境にいるマージナルマン、曖昧な存在のように思った。大学教授の息子であり、優秀で膨大な知識を持ちながらも深い愛は未だ経験しておらず、満たされない。そこに現れたオリヴァーは知的で、愛を教えてくれるエリオにとってのイデアとの出会いであった。エリオの自身の成長への嫌悪をもっともわかりやすく示すのは桃のシーンだ。自己の身体の成長や心理的な成長としての欲望といったものに対し、苛立ちを感じるだけでなく、それをオリヴァーに見られてしまった恥ずかしさは、成長への嫌悪と気恥ずかしさそれ自体が表出しているようだった。画面上で心理を見せることが上手く、痛々しさやむず痒さがひしひしと伝わってきた。そして、オリヴァーとの別れは明白にエリオが成長する瞬間であった。


本作『君の名前で僕を呼んで』にこの年齢で出会えたことを誇りに思う。画面に映るすべてが美しく、心を奪われる。それだけではなく、二人の感情や心理が手に取るように伝わってきて、感動した。ここまで幾度となく書いてきたように、この映画ではあらゆるものの区別が曖昧で境界線を持たない。これは、ジェンダーだけでなく国家、宗教、政治思想、あらゆるものを対立として理解し、明確に区別する現代において大きな問題提起をしているのではないかと思う。たとえば、性別というのは確かに外見での相違はあるが、内面を考えるときその区別はなくなる。性愛と友情の違いを問われたとき、説明に困るように、こうしたものも区別は曖昧だ。そして、これは主語を大きくすれば国家に関してもいえる。日本においては特異な部分があるが、大陸の多くの国は境界線など引くこともなく、移動し、相互に関わり合ってきた。しかし、恣意的な区別である国家に私たちは固執し、今やがんじがらめになっている。これはとても滑稽なことのように思う。特異とは言え、日本においても似たようなことは言える。明治維新以前の日本をいわゆる「日本らしい」の基準とするなら、もはや国内にも多くの国(藩)があり、他国に対してのナショナリズムや日本人という意識は存在すらしなかったはずだ。世界中で見られる多くの区別が近年特に重視されるようになっている。区別はあくまで恣意的で、それ自体に意味のないものであることを今一度自覚し、曖昧な境界線の中で、「気の迷い」として自分を縛り付けることなく、自己にとって大切なものをとは何かを探し、そこで出会う感情をどんな些細なものでも大切にしていきたいと思った。
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