白人と黒人と、差別の加害者と被害者と、差別主義者と自称非差別主義者と、男と女と、家族と他人と、警察(権力者?)と一般人と…
全体的な雰囲気として確かに何かがオカシイと感じながらも、その違和感がそれぞれのポジションにおける見方見られ方を過剰に意識しているが故にバイアスがかかりある種被害妄想に陥って入ってしまったがためのものであるかもしれない…などと核心が持てない。
差別意識の有無と、無意識の差別と。故意によるものと、無理解によるものと。時に差別主義者と非差別主義者の構図がひっくり返ったりもする。区別と差別が混同されその誤解から大きな不和へと発展することだってある。
こういったデリケートな問題があるとして、腫れ物でも触るかの様な外側からの消極的なアプローチの魅せ方は見事だった。
「スケルトン・キー」(2005)…「シェルター」(2010)…「ユージュアル・ネイバー」(2013)…「インビテーション」(2015)…「セルフレス 覚醒した記憶」(2015)