DVDにて鑑賞。
舞台はイギリス・ロンドン北部。ユダヤ教の「超正統派(ウルトラオーソドックス)」コミュニティにおける同性愛への抑圧、およびセックスが「務め」とされる慣習から、彼女たちがどうにか抜け道を見つけ出そうとする物語。
そう、彼女「たち」なのだ。邦題にも「彼女たちの選択」という副題が付けられている(ナイス)。つまり、本作における諸問題は女性だけが抱えるものじゃないのだ。それが証拠にロニートとエスティのみならず、2人を側で見続けてきた次期ラビ候補のドジャッドも、先に挙げたものとどう向き合うのかを選択していく。
主要人物がみな、現状をより良くしようともがく理由は単純だ。それは本作が単に「宗教と自由との対立」を描いたものではないからだ。射程はその背後、旧態依然とした男性性・家父長制まで見据えている。だからこそ、本作の冒頭は全員にとっての「父」が死亡する場面で始まるのだ。1人の「父」が死んでもなお残る「制度」という呪い。ロニートとエスティはどうしても、その枠に収まれない。そして2人の思いを(エスティと結婚こそしたものの)誰よりも理解しているからこそ、ドジャッドも「父」の教えを引用しつつ、従来とは異なる「自由」のあり方を探ろうとする。本作はナオミ・オルダーマンの処女作が下敷きになっているが、「父権からの逃走」というテーマに作風の一貫性を痛感するなど。
3人の選択はそれぞれ異なる。よって道は違えることになる。ただ、男性性や家父長制に対して「Disobedience(本作の原題)」=不服従であること。それが彼女たちを、あのハグのように温かく繋ぎ止めている。
ここからは余談です。
ロニートが最初にドジャッドのもとを訪れた場面が印象に残っています。一部を除いてほぼ全員が、彼女の挨拶を無視するあのシーン。多くの場面で、ロニートは誰とも目を合わせられません。そんな孤独の中にあって唯一、エスティだけが彼女の視線を捉え続けるのです。これは物語中盤、本格的にお互いを求める前からずっとそう。欲望は選べない。そのなんと苦しく狂おしいことか。レイチェル・マクアダムス、めちゃくちゃいい演技でした。