tamashii

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?のtamashiiのネタバレレビュー・内容・結末

4.6

このレビューはネタバレを含みます

BDレンタルで見かけてまたまた視聴。やっぱり傑作。BD買うかな。

個人的には広瀬すずも菅田将暉も松たか子も非常によくできてたと思うし、声優全体に文句はないが、祐介だけは要検討。最初の世界で祐介の本心とうわべの取り繕いが分かりにくいのは、絵だけでなく演技のせいもある。祐介は、見た目はほどほどにイケてるとはいえ、根性が全くないのに嫉妬深い、童貞らしさ溢れる中坊である。中学生の恋愛で同級生にバレたくないという祐介の心情をリアルなものにするためには、まもちゃんでは大人の余裕が出過ぎてしまう。もっと余裕のない、子供っぽい(役の似合う)声優の方が良いと思う。

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6回目鑑賞後
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6回目。暇があれば観に行ってしまう。

もしも玉を投げる前に、三回も目が合ってる。もしも玉を投げるまで、なずなは一度も笑わない[いや、ナズナ畑では微笑んでたかも]。もしも玉を投げた後、なずなは典道と一緒に過ごせて、何度も笑う。......これだけでどういう映画かよくわかるだろう。

ラストで、典道だけがもしも玉のカケラを掴む。そのカケラには、なずなと二人でいる場面が映り込んでいる。二人が一緒にいるという「もしも」を、典道は掴み取ったのだ。

なずなのテーマだった「駆け落ち」は、なずな自身が無理だと諦めていたのだけど、ラストで「次会えるの、いつかな」という約束に変わり、ただの諦めや逃避ではなくなった。そして、ラストの教室に典道はおらず、その約束は果たされるだろうことが示唆される。結局、なずなのテーマもかなりポジティブに解決しているのである。

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5回目鑑賞後
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5回目鑑賞。未だに新しい発見があり、無駄なシーンが全くないことがわかってくる。また、なずなの気持ちが分かると泣ける部分が多い。

典道のテーマは、なずなを「捕まえる」こと(トンボのシーン)、別の言い方では、なずなを自分の元へ「取り戻す」こと(灯台のシーン)。なずなのテーマは「駆け落ち」。二人とも一緒にいたいのは同じ。そして、どちらのテーマも現実には叶わない。二人が違うのは、なずなは駆け落ちがうまくいかないことを自分で悟っているが、典道はなずなに導かれて自分がなずなを捕まえられないことに気づくこと(「次会えるの、いつかな」の後の典道の表情)。

なずなが典道をどういう風に好きなのかについて。(1)「勝った方を誘おうと思ったの」「典道くん[正しくは島田くん]が勝つと思ってた」って、もう好きって言ってるも同然じゃないか。なぜ典道は気づかないのだ[なずな自身が気付いてないのかも](2)自転車で二人乗りしている時、どこに向かっているかわからないと聞いて微笑むが、駆け落ちっぽいと思ったからに違いない。(3)電車の中で典道に押し倒されたとき、全く抵抗する気配がない。ここでなずなが呼吸する数秒のカットを挟めば、なかなか性的なシーンになっただろう(中1の恋愛には早すぎるから無しなのかも)。三浦先生がかなり性的に描かれてた一方、なずなの性的な部分は抑え気味(本当のビッチは「ビッチの血が流れてる」とか言わない)。典道が好きだというのは、女として男を好きになるというより、友達に近い感情なのかも。(4)「次会えるの、いつかな」と言ってあげるところでは、やはり女子の方が成長が早いのか、典道をしっかり導くような役割を演じている。

この「次会えるの、いつかな」からの一連の流れは芸術の域。なずなは、駆け落ちは上手くいかないという現実を受け入れて、それでも今日だけは典道と一緒にいたい、と思っていた。一方典道は、今日を繰り返し、ずっとなずなと一緒にいたいと思ってしまった。典道のことは好きだけど、でも、今日に留まり続けることは現実にはできないと知っているからこそ、「次会えるの、いつかな」なのである。それを聞いた典道は、苦しそうな表情をするが、それを受け入れ、なずなに思いを告げようとする。そこで、テーマ曲のForever Friendsである!二人の想いは、恋人というよりまだ親友への親愛に近いものなのかもしれないけど、その思いがその先もずっと続くことが示唆されているのである。だから、ラストの教室シーンでなずなと典道が教室にいないのは、突然死んだとか意味不明な解釈は間違いで、なずなは引っ越してしまったけれども何らかの仕方で二人は特別な関係を維持している、と見るべきである。少なくとも、典道が教室にいないのは、男友達ではなく好きな女を選んだということでもあり、これは一種の成長として見ることもできる。

思えば、たった一日で、典道はずいぶん成長した。一番最初の現実で、なずなが連れていかれるのを見ていることしかできなかった。次の世界で、自転車でなずなを連れ出し、いつもの仲間である祐介たちと離れることを選べた(祐介にはこれができなかった)。その次の世界で、追ってきたなずなの母親達から、一時的にとはいえ、なずなを取り戻した。しかし、ここで典道は、なずなとずっと一緒にいたいと願ってしまった(水上電車でもしも玉の中の世界に入ったのは、現実には不可能な「もしも」を願ったから、現実ではありえない世界に行ったということかも)。しかし、最後、なずなに諭され、自分の願いが間違っていることに気づくのである。男子仲間とおっぱいがDだのFだの言ってた頃からはずいぶん成長したものだ。

もしも玉についてまだよくわからないのは、玉は典道しか使えないのか、祐介でも使えるのか。もしも玉がなずなの父によってもたらされたものだとすれば、なずなの父は、なずなが気持ちの整理をつけて町を出ていけるようにその玉を与えたのかもしれない。もしそうなら、もしも玉を投げるのは典道でなければならないので、砕かれたカケラに祐介となずなの「もしも」が映るのは奇妙だ。もし誰にでも投げられるのだとすれば、なずなの父親が玉とどう関係するかがよくわからない。

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4回目鑑賞後
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4回目。何度見ても良い。この作品の良さは、いろんな解釈ができるとか、映像美を楽しめるとかいうことではないと思う。というか、そんなに解釈の幅はない気がするし、絵のスタッフや予算的にも某男女入れ替わりに完全に負けてると思う。だけど、中学生の人間関係や気持ちが、深く細かく読み取れるように作り込まれているという意味で、とても洗練されていて、良い映画だと思う。

一番最初の教室のシーン、先生が花火の話題を出すと、典道がなずなを見るだけでなく、なずなも典道の方を見て、目が合う。......なずなは最初から、典道と二人で行きたかったのだ(母親の手紙のことを思い出したのか、直後に暗い表情になるけど)。だから、後でなずなは「典道が勝つと思っていた」と言ったのだけど、正確に言えば、典道にプールで勝って誘いを受けて欲しかったのだ。それなのに、典道に「及川が早かったから…」なんて言われたら、そりゃ怒りたくもなる。おそらく、なずなの方は典道にこれまでもずっとアプローチしてきた。プールであんなに誘いをかけてたし、典道の家にしまってある二枚の写真ではどちらも典道のすぐ側で写っている。それなのに、鈍い典道は男子とつるんでばっかりだったのだろう。

一回目に見た祐介の印象は、仲間思いの良いやつくらいだったけど、見るたび祐介の印象が悪くなって行く。祐介が典道に何を賭けるかの話をしている時、一番初めに見たときは、祐介は典道に「俺が勝ったら、なずなに告”れ”」と言ったのだと思った。祐介は典道となずなの仲を応援しようとしていて、プールでうんこしに行って典道となずなを二人きりにしたり、典道の家で時間を潰しながら典道となずなを二人で会わせようと画策していたのだと思った。もしそうなら、祐介は本当はなずなのことが好きではないのに、好きだと口先で言っていて、なずなに花火に誘われたとき本当に行く気が無かったということになる。こういう風に受け取れそうなくらいにわざと曖昧にしてあるのだろうけど、「祐介実はいい奴説」は、もしもの世界での祐介の反応と辻褄が合わないので間違っていると思う。

むしろ、祐介は本当に根性がない奴である。プールでなずなを見たとき、緊張のせいで逃げてしまう。なずなが教室に入ってきた時、祐介はなずなを少しは気にかけるが、友達と話していた場所から動かない(対照的に典道は教室の反対側まで移動)。そして祐介は、みんなで灯台に花火を見に行く話にやけに乗っかってやけにテンションを上げる。後でそれは「みんなに合わせただけだ」と言う(プールで典道が勝った世界では、花火を見に行くのを辞めようとすらする)。祐介は結局、恥ずかしさから、なずなの誘いを無かったことにしようとしていて、花火を見に行くというのは、その言い訳に過ぎないのだ。では、祐介はなずなのことが本当は好きではなかったのかと言うと、そうでもない。典道がプールで勝った世界では、なずなと典道の仲に猛烈に怒って、二人を灯台から突き落とすまでする(クズと言って差し支えないだろう!)。多分、結構マジでなずなが好きなんだけど、根性がないのである。こうしたことから逆算すると、祐介はプールでの賭けで「俺が勝ったら、なずなに告”る”」と言ったのだ(大根小説版では明確に「告る」だし)。しかし、もしも祐介が一番になっていても、祐介は告白しなかっただろう。なずなに(全く本気では無かったけど)好きだと言われて、それを無かったことにするような奴が告白できるはずがない。そして、夏休みが明けても、祐介は絶対告らない。だって、典道がいない教室に祐介はいたのだから。

最後、なずなが泳ぎたいと言って向かった先は、もしも玉を拾った浜辺=父が亡くなった場所。最後のもしも玉の中の世界で、なずなは現実に戻ることを受け入れているように見える。だとすれば、なずなは最後、父親に別れを告げに行ったのかもしれない。現実に戻り、父親の元を去って、新しい父親と向き合うことを告げに来たのかもしれない。だって、そうしないと典道はいつまでも現実から目を背けることになるから。本当に良い子だ。母親は男の前でわんわん泣いて甘えてしまえるような可愛げのある幼い女性(だから男が寄ってくる)の一方、なずなは対照的に大人びた性格で、神秘的と思われていたり、友達も少ないらしい。そんな風に一見しっかりした女の子なんだけど、典道の前でアイドルの真似をして見せたり、「か・け・お・ち」すると言うのである。そして、典道との叶わない駆け落ちをする「もしも」の世界を見て涙をこぼすのである。あーもう可愛過ぎる!!!

なずなが可愛いのは広瀬すずのおかげでもある。広瀬すずの息遣いのお芝居が素晴らしい。これのおかげでなずなの美少女度が5割増しになってる。歌は得意ではないとのことで、お世辞にも上手とは言いにくいから(でも可愛げがあって大変良い)、松田聖子的なアイドルは無理かもしれないが。

この映画が女性ウケしないだろうと何となく思ってたけど、登場する女性がみんな歪んでるせいかもしれない。なずなの母親も三浦先生も性関係に緩い。なずなは非現実的なほどの美少女。典道のお母さんがもしかしたら一番まともかもしれないけど(ウンコネタの伏線を仕込むという謎の役割)、ほんのちょっとしか出てこない。男子同士の関係は比較的リアルなのに比べて、女性の方はかなり非現実的に扱われてる気がする。

アニメ版の脚本はよくできていて、典道となずなの恋も成長もよく描かれている。どうしてもアニメで評価されないなら、この脚本でまた実写映画にしても良いかもしれない。大根小説版はラストが嫌な感じだし、岩井実写版は面白いけど一本の映画作品になってない気がする。脚本的にはアニメ版が一番良い。

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3回目鑑賞後
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3回目を見た。土日は完全にこれで潰れた。でも後悔は全然していない。見れば見るほど良くできている。傑作と言っていい。

典道となずなが本当に両思いになったという確信と、祐介に実は勝ち目がなかったという確信が強まった。今までは典道の気持ちばかり考えていたけど、なずなの気持ちを読み取ってみると見えるものが増える。あと、もしも玉=灯台の電球(お父さんと関係?)=水晶と金の装飾の馬車や建物=波紋型の刻まれた水晶に覆われた街。

なずなが最初に松たか子に連れて行かれるシーンは芸術の域。ここの広瀬すずは、何度見ても本当に悲痛。なずなの中学生らしさというか、無力感が現れてる。だからこそ、典道の怒り、そして典道の無力さがすごく染みる(実写版だと若干抵抗するが、アニメでは本当に見てるしかできなかった)。そして、祐介の無責任さたるや。まもちゃんが声当ててるからつい憎めない感じがしてしまうが、なずなや典道の気持ちを考えれば、祐介は本当にクズだ。なんで花火に誘われたお前が追いかけない!祐介と駆け落ちなんて、絶対にありえない!…というのを女の直感で知っていたからこその後のセリフである。

なずなの母親がなずなに「瑠璃色の地球」を歌って聴かせてたことを思うと泣けてくる。Wikiを読んでから知ったけど、この曲は人気曲というだけでなく、この曲をレコーディングしたとき、松田聖子はお腹の中に神田沙也加を身ごもっていたのだそう。この曲は1986年のものだから、お腹の中になずながいた時、母親はこの曲を知っていたんだろう。なずなの方はそんなの知らないだろうけど、なんとなくこの曲を好きだったのだろう(少なくとも好きな男の子の前で歌うほどには)。この辺りのセリフも本当によくできてて、なずなの複雑な心境が読み取れる。本当は母親のことが好きなんだけど、前の父親のことも大切だから、新しい父を認められない。そこで、母と前の父がしたように駆け落ちしようと思い至ったのだろう(さらには、母のように水商売で稼ぐ、ということかも)。この辺の事情が描かれてる点が原作実写版との大きな違い。アニメ版では、なずなも乗り越えるべき問題を抱えた主人公の一人なのである。もちろん、そんな駆け落ちはうまくいくはずもない。

そうなると、なずなにとって大事なテーマは「駆け落ち」だろう。電車の中、アイドルになって馬車に乗るシーンは、魔法を使って典道と一緒に駆け落ちする「もしも」を表しているんだと思う。このシーンの間、もしも玉のカットが挟まれるが、よく見ると馬車の装飾や向かう先の世界はもしも玉の装飾とよく似ている。もしも玉の魔法を使って、つかの間の夢を見たのだ。その夢の続きは、ラストでもしも玉が砕け散ったカケラをなずなが覗き込んだ時に映っている。こうした描写からわかるのは、なずな自身が典道と駆け落ちしたいと思っているのであり、典道のことが好きなのは結構はっきりしているということ。

というかそもそも、なずなは最初から典道のことが好きなのである。プールで祐介が勝った時、なずなの表情はかなり暗い。その後に典道がナヅナ畑で広瀬すずと出会った時、広瀬すずは「家出するの」と言う。一方、プールで典道が勝った時、なずなの表情は抑えきれない喜びを隠すような笑みである。そして、家出ではなく、「か・け・お・ち」するのだと言う。あーもう可愛い!アニメの中では描かれてないが、小説では岩井版でも大根版でも、二人は前からちょっと特別な関係だったことが示唆されている。アニメが始まった時点で、最初から祐介君にはチャンスはないのだ!もし祐介がなずなとうまく行くとすれば、相当に過去に遡らなければならないだろう。

ラストの水晶に囲まれた世界は、もしも玉の中なんだと思う(それまでのシミュレーションの世界と少し違う)。玉の中に留まる限り、典道はずっとなずなと過ごせるかもしれない。なずなも、それは決して悪くないと感じている。でも、なずなは自分を追いかけてきてくれた母親の姿を見た。そして、駆け落ちがうまくいかないことは自分でわかってしまう(実写版と同じように)。だから、典道の提案には完全に同意できない。その代わりに、次の世界でも会うのが楽しみだ、と告げるのだ。典道が自分の元へ飛び込んできてくれた時の、嬉しそうな表情。...もはやどう考えても完全に典道のことが好きである。二人が思いを確かめ合うのもつかの間、もしも玉は砕かれ、二人だけの世界も消え去り、駆け落ちは失敗に終わる。(二人がもしも玉を砕いていれば、二人がもっと積極的に現実への回帰を認めたことになるだろう。いつの間にか砕かれてしまうあたり、現実の厳しさが突きつけられたという感じがちょっとする。)
[ラストあたりの流れが若干間違ってる気がする。正しくは、もしも玉の世界で、典道がずっと一緒にいたいと告げるが、なずなははぐらかして、海に向かい、そこで次会えるのいつかなとなずなが言い、もしも玉が砕かれ、二人が思いを確かめる。...の気がする。]

でも、アニメ版はそこで終わりではない。二人の恋についてもっともっとポジティブだ。現実に戻り、なずなは引っ越してしまったのだろう。教室のなずなの席は空いている。祐介はその席から目を背けている。そして、典道は教室にいない。つまり、祐介がプールで勝った現実で、祐介だけが取り残されたのだ。…ざまあ。

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実写劇場版視聴後
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実写劇場版をhuluで見て、岩井版の小説も読んだ。
時代を感じて笑ってしまったが、なかなかよくできてると思うので、見て損はなかった。

「打ち上げ花火」の評価について、4つの分類がありうる。
(1)実写劇場版も良いしアニメも良い
(2)実写劇場版は良いがアニメはダメ
(3)実写劇場版はダメだがアニメは良い
(4)実写劇場版もダメだしアニメもダメ

今の世間的な評価では、(2)実写は良いがアニメはダメが多数派に見える。
でも、実際には、アニメを見たけど実写は見ていないという人もかなり多いと思う。さらに、実写版でもアニメ版でも、中心的な要素はかなり共通しているので、アニメ版で何が言いたいかわからない人は実写版でもわからないだろう。そうだとすれば、アニメ版を酷評する人の大半は実は(4)である。でも、(4)はこの作品が全然好きでないので、(1)と(3)だけでなく、実写版を褒めている(2)の人とも対立している。要するに、アニメ版を酷評してる人たち同士にも実際には対立があるだろうということ。

自分自身は(1)と(3)の間くらい。実写もなかなか良いが、アニメの方がもっと良い。実写だと、なぜIFを見るのかの理由は、製作者が作りたいからとか視聴者が見たいから以外になく、作品中で回収されていない。一方アニメでは、典道が自分の望みを叶えるためにもしも玉を投げるので、IFを見る理由は物語全体に組み込まれている。あと、アリを捕まえるより、トンボが捕まえられない方が、暗喩として優れている。

今更気づいたが、アニメ版でなずなが「全部私のせいなの」と言うのは、「ビッチ」の母親の血を受け継いでいることや、その母親が男に裏切られてきたという背景からだろう。

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大根小説版読了後
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大根氏の小説版を読んで気づいたことのまとめ。小説版にしかないネタバレあり。せっかく映画を見たなら、読んで見ると理解が深まって良いですよ。薄いのですぐ読めますし。

・現実世界で、典道はなずなに留まったトンボを捕まえられない。典道がなずなを留めておくことができないことの暗示。

・当たり前だが、実際の花火は色々な形があって、丸いのも平べったいのも蠢くようなものもある。小説版でも映画版でも、丸以外のものはおかしいと感じるわけだが、それは、その花火が打ち上がった世界を典道が受け入れられないことを示している。

・小説版を見ると、典道となずなは小学5年生で出会っている。父親同士が友人だった。また、なずなは美少女だとハッキリ描写されている。アイドルになるというのは、あながち悪くないんだろう。

・映画では「16歳に見える?」だったが、小説版では「18歳に見える?」。後者の方が絶対良い。18歳の方が背伸び感が強調されるし、アニメなら18歳に見せられたはず(というか、元々中学生に見えない)。だいたい、16歳では水商売できないだろう。

・何気に震災後の世界。この部分を全面カットしたのは良い判断。典道となずなの関係にとって重要ではないので、余計な要素になる。ただ、そのせいで父親の死因が説明なしになってしまった。

・もしも玉は、父親が死んだ浜辺でなずなが見つけた。元々はなずなにもたらされたもの。映画版のラストでは、典道だけでなく祐介がなずなとデートしてるシーンもカケラに映り込むが、純一[間違い。三浦先生が好きなのは和弘]と三浦先生のもしもは映ってなかった気がする。あのカケラは、なずなに関わるIFだけを閉じ込めているのかもしれない。

・小説版の終わり方だったら、劇場は今以上の地獄だっただろう。回数制限とか訳わからん設定よりは、何故か都合よく花火職人と筒が浜辺に揃う方がまだ納得感が高い。映画の終わり方は原作小説に比べると遥かに爽やかだし、演出上も綺麗。それでもウケてないところを考えると、この作品を見るべき観客に正しく届いていないということなんだろう。

まだわからないことは次の点:なずなは典道がプールで勝つと思っていたと言うが、本当か?本当ならそれは何故?

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2回目鑑賞後
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二回目視聴&パンフレット購入。ますます良い作品だと思った。みなさん、酷評する前にパンフレットを読んでみなさいな。

花火は色んな形があるけど、典道が見たいのはその中の一つなのである。タイトルをもっと作品を直接に表すものにするなら、「下から見るか、横から見るか」ではなく、「下から見たいか、横から見たいか」あるいは「丸が見たいか、平が見たいか」だと思う。花火は丸いはずなのに、見えた花火が平べったかったら、そんなものは間違っているのだ。打ち上がったものが自分が望むものと違うとき、こんなものは間違っていると言って、花火が丸い世界を探すのである。

二回目を見て良いシーンだと思ったのは、なずなのお母さんが最初に出てくるシーン。キャストインタビューで松たか子が言ってる通り、なずなのお母さんは重要な割にセリフがほとんどない。だけど、初めてなずなが家に帰ったときのなずなの顔を覗き込むやりとりだけで、十分にどんな人かわかる。

もしも玉を使ってから、現実には有りえないことが演出されるのだけど、それはアニメならではの表現を探求してのこと。どこが現実と違うか細々指摘するよりも、色々な印象を与えてくれる表現を楽しめば良いのだと思う。

ラストは現世に戻った説を支持したい(なぜなら、先生の胸元に影があったから...)。だから多分、なずなとの約束を果たすべく、会いに行ったのだろう。次に会えたのが、いつだったのかはわからないけれど。

劇中曲も主題歌もとても合っている。これはとても稀なことで、大抵の邦画作品はタイアップでいい加減にアーティストを見繕うせいで、作中の雰囲気と鑑賞後の余韻を台無しにしてしまう。一回目の鑑賞後に打上花火もForever FriendsもすぐDLしたが、歌詞までじっくり味わえるとても良い作品。

とにかく、とても良い作品だと思うし、こんなに評価が低いのはデマに等しい風評被害でしかないと思うので、面白いと思った人は自信を持って高評価をつけて欲しいと思う。

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1回目鑑賞後
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原作実写版は未読。岩井俊二は何となく好きでない感じがしてたけど、すごく良かった。

最近では珍しいほどコンパクトな世界観とストーリーだが、そのおかげで作品世界によく浸れる。特に、台詞回しがよく出来てる。説明し過ぎないという当たり前のことが出来てる。(出来てない作品が余りに多いので。)

なずなのような境遇の女の子は、男性向けの恋愛ものだとしばしば出てくる。表面的にはクラスの人気者なんだけど、家庭内に秘密があって、たった一人で苦しみを抱えている。その苦しみを主人公の男の子が知ることで、二人は力を合わせてその苦しみに立ち向かうことになる。この構造だけなら、膵臓を食べに九州に行く?最近の映画と似ていると言える。

でも、圧倒的にこっちの方が良い。本当に思っているはずのこととは違うことを言葉にしているとか、出来事を通じて段々と気持ちが変化していくとか、そのおかげで本心を口にするようになるとかがポイント。その微妙な言い換えや変化が読み取れるほど、人間関係や性格に関する情報量も増えるので、この作品のストーリーは短いけど、情報量は決して少なくない。

結論としては、恋愛模様がかなり上手に描けていて良かった。いやー、なずな可愛いいよなずな。
tamashii

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