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サマーフィーリングのnemriameのレビュー・感想・評価

サマーフィーリング(2016年製作の映画)
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ある空白地帯のように喪失を中心に据える手法は、日本では朝井リョウ原作『桐島、部活やめるってよ』(吉田大八監督, 2012年)や、古くは紫式部『源氏物語』などにも見られるもので、近年のフランス映画では、ルイ・ガレルが監督・主演した『パリの恋人たち』(2018年)などがまさにそうであったように、たぶんそれほど珍しいものではない。

けれど、フランソワ・トリュフォーをはじめとするフランス映画からは、男女の人数や構成などに、どこか数学的な印象を受けることが多く、この作品についても、やはり幾何学を解くような感覚が宿っていた。

監督は『アマンダと僕』(2018年)のミカエル・アース。いずれの作品においても、登場人物たちは、喪失によって生じた空白地帯を中心に生きている。

恋人を失った青年
姉を失った妹
娘を失った両親

その中心にいるのが、30歳のサシャ(フェオドール・アトキン)という女性であり、『アマンダと僕』では、主人公の姉(アマンダの母親)がこれに相当する。しかし同作では、その姉の存在が、観客にとっても大切なものに思えるように構成されていたのに対して、本作のサシャは、映画の冒頭で唐突に亡くなってしまうため、こちらの(少なくとも僕の)心は何も動かない。

この『サマーフィーリング』(原題:Ce sentiment de l'été:夏の感傷)という邦題も原題も示すように、ここにあるのは「sentiment, feeling」のみ。つまり、感傷(sentiment)それ自身を、純粋に取り出してみせた印象が強く残る。

主人公の青年が、ベルリン、パリ、ニューヨークと、1年置きに舞台をかえていく点にもよく表れており、サシャの恋人ローレンス(アンデルシュ・ダニエルセン・リー)にせよ、サシャの妹ゾエ(ジュディット・シュムラ)にせよ、彼らが喪失したものは、具体的にはサシャになるものの、それを観ている僕たちが受けとるものは、「その感覚」のみということになる。

もしも、喪失からの再生を描こうとするなら、『アマンダと僕』のように、喪失された「その人」を丁寧に造形しておく必要がある。しかしこの作品には、幾何学的に構成されたような感傷が、それ自身としてのみ存在する。

それは広く一般的に、夏という季節に訪れる「あの感覚」であることが、おそらく原題にも示されている。

冒頭でも触れたように、ときとしてフランス映画は、こうした数学的なアプローチを好んでいるところがあるように思う。1つの伝統になっているのだろうか。

★フランス
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