グレアムの手紙

羅生門のグレアムの手紙のレビュー・感想・評価

羅生門(1950年製作の映画)
5.0
降りしきる雨の羅生門は、今にも崩れかかった、鬼の住まう人心そのもの

「人はみな手前勝手で生きてる。人は嘘をついて生きるものだし、人なんて信じず、手前勝手に生きればいい」
そんな世渡り上手な男の言葉も、鬼を見た絶望者には何の慰めにもならない。
人それぞれの「手前勝手」が交わる所にどこからともなく鬼は現れ、誰の手前勝手だろうと容赦なく打ち壊しててしまう。

「人妻を手篭めにするために夫をだまし討ちにしてやる」
「夫の前で見知らぬ男に辱められて腹を切らない妻など捨ててやる」
そんな人の情念の残忍さ冷酷さが恐ろしいのではない。
本当に恐ろしいのは、情念が絡み合って道理も理知もないヒステリーが場を飲み込んだ時に、誰も望まない結果が外部から持ち込まれてしまうことだ。

決闘の場面のヒステリーは、まるで3人が鬼か何かに操られているかのやうな様相を呈している。森雅之は三船に殺されたのではない。鬼に殺されたのだ。
後になって説明しようにも、3人ともあの鬼をビビる。誤魔化す。当然事実すら食い違う始末。

鬼は人と人の間にいる。人の手前勝手な心の隙間に付け入る

「そんな世界を私はどう信じればいいのか。信じてみたいが、どうすればいいのだろうか」
そんな苦悩すら所詮は自分が納得して安心したいだけの「手前勝手」にすぎない、という堂々巡り。
そうなると彼の手前勝手な心にも、例に漏れず鬼の一面がちらついてくるという、つくづく恐ろしい話。

しかし
例えば、今、目の前で泣いている捨て子がいる。この捨て子に自分は何ができるか。それは一つのチャンスかもしれない。
ここで自分の「手前勝手」さえ手放せば、「見知らぬ赤子を引き取るなんて面倒はごめんだ」とか「もう俺にはガキが六人もいる」とかいった心さえ捨てれば、鬼に付け入る隙を与えないで済むかもしれない。
「なぜ親が子を捨てるなんて不義理があるのか?」「なぜそんな親を許せる世の中なのか?」「この子を任せるに値する信頼に足る者は誰か?」
そんな心も簡単に鬼を引きつける!

鬼にやられるか否か、全て人間の一瞬の一念にかかっている。