koumei

ミックス。のkoumeiのネタバレレビュー・内容・結末

ミックス。(2017年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

ガッキーが観たいから観るという人がほとんどで、そういう映画は得てしてつまらない、と思ってたけど、メチャメチャ面白い!
映画評論的視点でも面白く、映画としてのメッセージが、「過去の栄光に縛られず前向きに等身大に生きよう」で、これが自己言及になっていて、製作しているフジテレビにも言えることだし、映画というメディアにも言えるし、脚本家の古沢良太にも言えるし、キャストの主人公のガッキーにも言えるし、このメッセージが全てに該当する。
フジテレビは80年代のバラエティの内輪受けの文法でテレビを支配した栄光があるけど、それを捨てて新しいバラエティを、コンテンツを作るよ、という決意表明になっていたし、映画も過去のものになってしまったけど等身大に生き残っていくよ、と表明してたし、古沢良太はALWAYS三丁目の夕日でノスタルジー消費を加速させた功罪者の一人だけど、その手法を捨てて新しいコンテンツを作る、という無意識が見られたし、ガッキーは29歳という、女優としてそろそろカワイイだけでは生き残っていけない時期に差し掛かり、過去の自分を捨てて新しい役に挑戦する、ということで今回みたいな大胆な演技に挑戦していた。
で、その答えがミックスという作品になっている。
フジテレビと映画が生き残っていく手段としては、他のメディア、特にネットに対し敵対するのではなく、協力していくことで生き残る、ということで、ミックスというのは、メディアミックスのことを指している。
話としては、天才卓球少女と呼ばれた主人公が母の死によって平凡な人生を過ごし普通の幸せを願い、会社の卓球部のエースと付き合っていたが他の卓球部員に寝取られ、田舎の実家に帰るが、実家が経営している卓球クラブに、妻と娘に見捨てられた男が現れ、なんやかんやあってその男とペアを組み卓球部のエースをミックスダブルスで倒そうとするが、いかに!?という話。

冒頭から卓球の愛ちゃんやボクシングの亀田兄弟のパロディがクソ面白いし、会話がシモネタに聞こえるアンジャッシュのすれ違いコントのような会話はクソ笑った。
随所に笑いがあり、完成度はかなり高い。
このバラエティの力は、フジテレビが80年代の内輪受けのノリに頼ったお笑いを捨てて新しいお笑いを開拓するという意気込みが見れた。

で、随所に、昔の記憶の回想シーンが多いの。
母親との記憶、エースとの記憶、ペアの男との記憶。
これは、映画とは記憶と密接に関わっているというメッセージになっている。
昔あの人と映画行ったなとか。
そういう記憶としての映画として生き残っていくよという、クリストファーノーランでいうところのメメントとか、インセプションみたいな、映画とは記憶の操作なのだというメッセージを感じた。
また、卓球のプレイスタイル、たとえば前陣速攻型、とかを、卓球選手の自己紹介の時にめちゃめちゃカッコよくテロップで表示し、まるで必殺技のように見せる、というのも、映画は映像だけど文字でも演出できるのだ、というメッセージも感じた。
登場人物の動きも、まるで漫画やアニメかのような動きで、自分の身体のキャラクター化を演出した堤幸彦的なものを感じた。
ガッキーと瑛太という、男女ペアは、堤幸彦も男女ペアの設定のドラマが多いし、かなり意識してるんじゃないかと思った。
堤幸彦はドラマ最高、映画最低という評価が多いけど、今回は男女ペアモノで映画でコメディでそれを成功させた、堤幸彦的手法をアップデートした作品とも言える。
でもその一方で、ガッキーがケガをするシーンもあるし、瑛太が目を怪我する設定もある。
つまり漫画アニメ的な、死なない身体としてのキャラクターを描く一方、ダメージを受ける身体、死ぬ身体としてのキャラクターも描いてて、手塚治虫的なキャラクターの矛盾性も描写している。
また、卓球クラブに所属する中年夫婦が作っている、トマト大福というクソ不味そうな食べ物があるんだけど、普通はそれをギャグとして描くんだけど、中年夫婦の過去の悲しい話がわかった後そのトマト大福を食べるシーンでは、凄く美味しそうに見える。
自分はそこで号泣してしまった。
つまり映画とは、演出次第で味覚という認識装置さえも変えてしまう、コントロールできてしまうのだと。
映画とは視覚と聴覚で圧倒するメディアであると振り切ったダンケルクの、先をやったと思う。
4DXなら触覚も補えるし、昔鴻上尚史が言った映画に嗅覚を刺激する装置を作れというのが実現したら完全に五感を刺激可能になる。
フォーマットとしてはかなりベタなラブコメなのに、いやあえてベタなストーリーに、戦後の漫画、アニメ、ドラマの手法を取り込んで感覚を刺激すれば映画はここまで面白く出来るよ、という意気込みを感じた。

主人公の富田多満子という名前にも意味があると思っていて、「富」「多」「満」というのは、たくさんある、という意味で、主人公は映画やテレビのメタファーだから、もうコンテンツなんてこの世に腐るほどあるのだ、という、ちょっと自虐的な意味があるんだと思った。
また、ガッキーも、女優で、女優も同じくたくさんいる、だからこそこのタイミングで新しいことに挑戦しないと新しい若い女優に役を奪われるよ、というメッセージなのかと思った。
卓球クラブに広末涼子がいるんだけど、実は広末涼子はそのカワイイだけの女優的ポジションから上手く新しい境地に達した成功モデルだから配役されているのだと思う。
露悪的だけど、広末涼子は普段は家庭的な専業主婦をやりつつ、卓球クラブでは豪快な素のキャラになっている。
で、最後は専業主婦としても素の豪快なキャラでいくことを周りに認めさせる。
ガッキーにも、広末涼子のように、徐々に清純派じゃない演技に移行した方がよいというメッセージを感じた。
で、卓球部のエースのペアは、何を意味するのか。
叩き潰す、というセリフからもわかるよう、これはネット、AmazonプライムやNetflixなどの競合のメタファーだと思う。
最後彼らにあと一歩のところで、不運な形で敗北するんだけど、これはテレビはネットに完全敗北してるわけでもなく、情報環境の変化によってたまたまこういうポジションなんだ、ということを示している。

最後に、卓球クラブの一人に10代のオタクっぽい子がいて、この子がポシャりかけてた大会出場にエントリーするシーンで、ここも感動的なんだけど、これは、若い一部のオタクの人でもいいから、映画観に行ってくれるといいなという希望として描写されてるんじゃないかな。

とにかく、映画の可能性を感じさせた作品だし、女優に興味のない自分が、完全にガッキー好きになってしまったので、もう一回観に行きたい。
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