放浪の旅のすえに畑の端で凍死した少女モナの最後の数週間を関係者の証言をつないで追って行く。
寒そうでしんどくて痛々しくて悲惨です。主人公も愛されキャラではないし悲しい結末も冒頭で明かされているのに最後まで目が離せず気づいたら前のめりになっておりました。不思議です。救いも甘さもなくモナもあまり語らないので妄想の余地がないせいか観ている間ずっと彼女そのものになって垢まみれで凍えながら心細く無意味に放浪しているような気持ちでした。感情移入より重度の感情移入をうながす映像マジックというか。
関係者に語らせることで女性たるモナの置かれた状況が自然と浮かび上がるように作られていたのが面白いですね。女たちがモナという人格に共感や同情を抱く一方で男たちは無関心で、やたらと「いい女だった」と性的に消費できる女体として記憶しています。同じ人間を見ていてもこんなに違うわけです。性的に消費できる肉体としてしか記憶されない存在。それは人間なんでしょうか。確かにこれは女性映画です。
モナをいい女だったと語る男たちだけでなく左翼男性の描き方もまた容赦がありませんでした。
小娘を叩き起こして説教をかましつつ「俺の女房」とは違って黙ってこき使われてくれないモナに苛立って「あの女の放浪は反体制ではなくて怠惰だ」とくさす無自覚な支配欲と男尊女卑の垂れ流し。監督の周りにも似たような人物が腐るほどいたであろうことを想像すると解像度の高さにちょっと笑ってしまいます。
右手首のベルトや秘書の話や涙がモナの辛い過去を暗示しているとすれば、自由に楽して生きていたいと言う言葉はインテリ農家が言うような軽い意味ではないはずです。モナが死んだのは怠惰のせいでも冬のせいでもなく男性の所有物にならないという意味での「女性には許されない自由」を選んだせいではないかと自分などは思いました。そのあたり『テルマ&ルイーズ』と同じかなと。最後のワイン祭りの色も赤というよりは紫色で、フェミニズムを象徴する色に見えました。
一時期話題だった『キャリバンと魔女』によれば、中世ヨーロッパの封建制度を崩壊させたのは度重なる職人や農民の一揆であり、彼らを分断させるために支配者たちがひねりだした方法こそが国家権力による「女性」の再定義だったと。貧しい女性への性暴力を法律で肯定することで女性全体を男性より低い身分におとしめ、貧しい男性に支配者と同じ奴隷所有の特権を与えることで一揆するパワーを削いだというのだからなるほどズル賢い。
この映画でも金持ち奥様の甥がしきりにモナを恐れていました。女性が自由になって1番困るのは支配者層なんですよね。貧しい男たちの不満が自分たちに向かってギロチンの悪夢再びになったらとんでもないことですから。あの甥にとってモナはただ生きているだけで恐ろしい「魔女」だったに違いありません。
とは言え、教授が感電する変なシーンとカチコチのフランスパンで小屋の壁をぶっ叩くシーンも良かったです。