ほぐし水

勝手にふるえてろのほぐし水のレビュー・感想・評価

勝手にふるえてろ(2017年製作の映画)
4.2
思い出は口から出て外気に触れた途端に、変質してまう。鮮やかな色もきらきら光る輪郭も失って、茶色く萎れてしまう。そういった、思い出(あるいは理想や妄想)と現実の「内」と「外」の乖離を表現するには、ミュージカルは本当に適している。この映画の、ミュージカルが始まるまでの流れは、痛々しいほどに綺麗だ。きっかけはヨシカの名前をイチが忘れていることが判明したところから始まる。

「イチくんって人のこと“きみ”って呼ぶ人?」

「あ〜…ごめん笑…名前なんだっけ?」

ああああああああああ、と思う。ヨシカはイチをずっと見ていたけど、イチはそうではない。イチにとってのヨシカは、名前も知らないモブであり、それはヨシカにとっての二の存在と重なる。だからこそヨシカは深く傷つく。二はヨシカが胸に赤いふせんをつけていただけで、ヨシカのことを見つけてくれたのに。ここからヨシカはあまりの「内」と「外」の乖離によって、正常さを失う。ヨシカの精神的なエラーを示すかのような電車の踏切の警告音に合わせるように、ヨシカは「この人の名前を私は知らない」と歌いはじめる。今までカメラに対して正面あるいはヨシカに目線を向けていた街の人々(ヨシカの妄想)は、一気に「モブ」化する。現実では誰もヨシカのことは見ていない。視野見すらもない。
この台詞で、この演出で、この松岡茉優の演技と歌でもって、この映画は小説だけでは表現しきれない部分を提示してくれたような気がする。誰かにとっての特別な存在でありたいのに、そうなれない。どれだけ社会と繋がっていても、生きることや生かすことを学ぶ中で感じる孤立感。私たちはちっぽけであり、なにか大事なことを達成するにはあまりに無力だと感じてしまう。でも、そんな中で、二のように自分を見つけてくれる人がいるのは本当に幸福なことなのかもしれない。最後に二のことを「霧島くん」と名前で呼ぶヨシカと、雨に濡れた二のシャツの水分を吸い取る赤いふせんが、少しだけ人生に対する期待を持たせてくれた。

あとは、イチが黒板いっぱいに「僕は忘れ物をしません」書いて、ヨシカに言われてその中の1つだけ「僕は忘れ物をします」と書くシーン。私なら文字数でバレちゃう可能性が高まるから「僕は忘れ物をしますん」って書きなよってたぶん言ってしまう気がして、そういう思考だから私の人生にはこういう可愛い思い出が少ないんだな?って気づいた。
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