スタンダップコメディアンのヘンリーとオペラ大女優のアン、"美女と野人"の電撃結婚は大いに世間を騒がせた。
熱愛の末生まれた子供"アネット"は摩訶不思議な人形の体を持ち、見せ物として身を売る両親の生き様を映しているかのようだった。
しかし、愛を手にしてしまったコメディアンは代わりにその言葉の矛先を見失い、次第に自己嫌悪に陥ってゆく。
他人を皮肉り不遜を生き甲斐としてきた彼にとって、愛は居場所たり得なかったのだ。
酒と煙草にまみれ、妻の成功を子守の片手間にただ眺める日々が続く。
冷え込む関係を見かねて、一家は休暇を取りヨットで海へ向かうが、そこで起きた事件はそれまでの生活を一変させてしまう。
一家はどのような運命を辿るのか。
人生の嵐の中でヘンリーは何を求め、何を得るのか。。。
"何を愛そうとも怪物は所詮怪物である"という、ある種冷酷とも言える諦念がヘンリーの骨格だ。
物語が進むごとに徐々に乱れていく邸宅は、真っ当に愛する事ができないにも関わらず愛なしには生きなれない彼の心の矛盾を表している。
愛に見放された男は非道と後悔、そして放蕩を繰り返す。
このような破滅的人物を演じ切ったアダムドライバーには惜しみない拍手を。
ジャックドュミにオマージュを込めたという歌うように紡がれるセリフは、撮影現場で同時録音したものを使用しているという。
歌唱というにはあまりに感情的だが、その本質は"各曲の旋律を用いてキャラクターを補強"する事にあると思う。
歌手の技量を見せつける事が本作の目的ではないし、増して一緒に歌いたくなるような楽曲ではない。
しかし、これらが単なるセリフでなく歌である事の効果は作品を見れば明らかだ。
またセリフが歌になる事で、わき役がコーラスとして難なく舞台に上がる事ができる。スタンダップコメディでのかけ合いはその理想形だ。
骨太な劇伴によって作品全体のリズムが規定され、次々に切り替わる場面と揺れ動くヘンリーの心境を描写する。
ダンスパートがある訳ではないが、役者陣の怪演と見事な撮影・編集によって映像の緩急と緊張感も担保されている。
オープニングのノイズの演出でも思ったが、本作は音が主導権を握っており映像がその調和を乱すことは決してない。
現実と非現実が画面の中で溶けて混ざり合い、見る者の正気が揺さぶられる。
「これが本当にミュージカルか」と問われれば、私は間違いなく"近年稀に見るミュージカルの傑作だ"と答えるだろう。