持て余す

リバーズ・エッジの持て余すのレビュー・感想・評価

リバーズ・エッジ(2018年製作の映画)
3.5
90年代ってもう20年以上も前のことなんだよね。震えるね。

岡崎京子の大傑作が映像化される!
この感覚は『ヘルタースケルター』のときに思ったし、実際見たときには「うーん。これじゃない」とも思ったのでした。詰まらなくはなかったけれど、求めていた岡崎京子のポップな呪詛めいたものは感じられなかったから、少し残念だった。

一方、この川っぺりの物語は原作の雰囲気がかなり色濃く反映されていて、とても良かったと思う。今みてもダサくないように工夫はしていたけれど、ファッションなんかも当時の雰囲気を出していたし、なによりあの「どうとでもなるでしょ」感はバブルの余波でまだまだお金があった頃の日本だ。

いまだって日本は決して貧乏じゃないけれど、中間層の経済は大きく傾いてしまったから、ああした「余裕」や「ゆとり」はいま狭い範囲にしかないと思う。これは90年代当時に作られた映画にも影響が出る話で、「(登場人物の)この人はどうやって暮らしているのだろう」という当然の疑問は、当時はどうとでもなっていたからあまり沸かなかった印象。

あの頃の若者が主人公の映画はモラトリアムだらけだった……ように思う。実際にそんなに多かったかは調べてもいないので不明だけれど、きっちりスーツ着て平日の朝から晩まで働いて、地に足のついた生活を送っている──という主人公の映画よりも、謎の生活をしている主人公の映画の方が印象に残っている。

これ、当時は割とリアルとして成立していたと思う。フリーターという存在が「まともに働かない責任感のないクズ」ではなく、「認めた方が搾取しやすい」程度には市民権を得てしまった頃で、右肩上がりが遂に破綻したものの、日本はまだまだ経済大国には違いないという世相。

これは00年代の初頭まで続いていたし、行定監督が世に出たのもその頃なので、その辺の演出は流石だと思う。ただ、その映画を見ているのは失われたとされる20年を経た(変遷を知ろうと知るまいと)後の人間なので、意識して見ないとこの違いはズレに感じられて、作品の印象に直結してしまうと思う。

いま現在、山田も観音崎もこずえもカンナもルミも人物像としては少し現実的じゃない。底辺高校(?)の学生といえど、彼らの生活や将来に対する無防備さは世間が裕福だったという時代背景の為せる技で、でなければリアルを喪失してしまう。

だから、ゲイであることで悩む山田、全能感に現実が伴わない観音崎、摂食障害のモデルであるこずえ、美形の彼氏がいることこそが存在理由になっているカンナ、虚無感を性的に消費されることで穴埋めするルミ、彼らの自己中心的な悩みは少しばかり古くさいように思う。

彼らの悩みはすべて「いま」に関する悩みで、「これからどうしよう」という視点が欠けている。かつては若者なんてそんなものだったけど、情けないことに令和のご時世にそれでは通らない(と思う)。

この20年で「普遍性」はすっかり変わってしまった。これは「多様性」に転じたのではなくて、「普遍的な若者」の含意がすっかり萎縮してしまったのだと思う。連綿と受け継がれてきた「今時の若いモノは」という揶揄に無軌道さや考えなしという要素は残念ながらかなりすり減ってしまった。

この映画ではかなりきちんと90年代を再現しているのに、その点をそれほど強くアピールしていないから、違和感があるようにも見えてしまう。視点を担うハルナが若者でありながらおよそ執着というものがない人間だから、「古く見えない」のもこれを補強してしまっていると思う。勿論、俳優陣がキラキラしたスターであるのも「いまっぽさ」を出してしまっている。

その辺をうまく処理していれば、もっと普通に素敵な90年代の空虚さ(この言葉恐ろしく陳腐で笑える)を描いた映画になっていたように思う。

ところで、あのインタビューのシーンはなんだったのだろう。「あの事件を追った」みたいな要素はなかったと思うし、彼らの感情を説明するのであれば、そんな冗長な話はない。物語の中で説明しきれないことはやっちゃダメだと思うのだけどなー。どうなんだろうなー。

まあ、いいや。
今度『チワワちゃん』も見よう。
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