我々鑑賞者にまずチュパカブラはいますという前提を踏まえさせての、死体を検分するシーンに始まるチュパカブラありきで話を進める者と、チュパカブラという前提を一切考慮していない者との対立は見事。チュパカブラという不確かなものを追い求める行為が中心ではなく、それに踊らされる人間たちがメインであると開き直っている。
チュパカブラという解を持っているか否かで、正確には強引にチュパカブラという答えを当てはめられるか否かでこうも事態へのアプローチは異なってくるのかと。チュパカブラを認めてしまえば簡単に済む話が、それが認められないだけでプロファイリングは複雑な経路を辿り始める。本来プロファイリングを行う捜査官たちの方がまともに見えるはずであるが、最初にチュパカブラを決定づけたことでそれが逆転して見える。捜査官たちが滑稽に見えるわけだ。
UMAを全肯定する姿勢が合えばハマるとは思う。