このレビューはネタバレを含みます
カテル・キレヴェレ。
彼女の類いまれなる才能に脱帽し、心からの敬愛を表すと共に、その名を記憶の奥深くに刻もう。
いのちといのちを繋ぐということ。
いのち、時間、太陽、海、光、大気、そして人間というもの。
彼女はきっと類いまれなる詩人としての才能と、それを映像化する才能を生まれもって備えているのだ。
いくら金を積んでも、人を集めても、作れるような作品じゃない。
若く美しい17歳の青年、シモン。
まだ恋愛を経験したばかりで、世界は輝く光と、碧い海、冷たく優しく懐かしい大気に包まれている。
瞬間、瞬間が輝いて見える時。
冒頭から映像に強く引き込まれる。
海の波に呑まれるカメラ、水面と泡の煌めき、そしてその音の美しさ。
映画という媒体を使いここまでの芸術表現ができる時代になったのだ。
交通事故で脳死状態になった彼のまるで生きているかのような美しい『身体』。
実は私にも10代の息子がいて、シモンの妹の年頃の娘もいる。
だからこそ、シモンの母親と父親の苦悩は、胸に鈍痛が起こるほど響く。
私達は、自分は自分の意志で『生きて』いると錯覚しがちだ。
だからこそ傲慢にも、精神的苦悩に苛まれれば自死を決意したりする。
しかし本当にそうだろうか?
神秘的ないのちのメカニズムを解明したものはまだ誰もいない。
どうして心臓が鼓動するのか、どこから精緻ないのちのメカニズムが創出されたのか、そのいのちを生み出した母親という存在自身すら、実は『知らない』のだ。
私の息子が大学病院で生まれた時、彼はRSウィルスに罹患した。
大人にはただの風邪でも、乳児が罹患すれば致死率が高いウィルスである。
医師は淡々と、いつ死ぬかも分からない事を、覚悟してくださいと私に告げた。
春先で桜が満開の季節だった。
病院から見える桜の樹や光や風が、異様に美しく輝き出し、煌めき、空気はより透き通るようだった。
世界はいのちに満ち溢れているのだ。
私達はふだん意識していない事の方が多いが、本当はいつも瞬間瞬間が輝き、煌めいているのだ、なぜなら私達は、限りある『いのち』の時間を生きているのだから。
この映画はその世界を見事に描いている。
臓器移植。
その是非について私は語らない。
いのちを繋ぐという、行為。
信仰心が厚ければ神の領域とされるこの世界に生きる人々、その想い、眼差し。
語られないのにここまで心に深く響くのはなぜだろう?
私がシモンの母親だったら、美しい息子の肢体にメスを入れられる事には耐えられなかったかもしれない。
しかしシモンの母親と父親は同意した。
彼らは、息子のいのちの一部が、この世界に生きる誰かの体内で存続することを望んだのではないか?
シモンが愛した、美しい世界で。
臓器提供を受ける中高年シングルマザーの二番目の息子が、母親の手術に駆け付ける為に走らせるオートバイの背後に、シモンが愛した深く碧い海と波と空が広がっている。
移植したところで臓器が適合しなければ、もう一つの生命が絶たれるのだ。
移植が成功したとしても、誰と誰のいのちが繋がれたのかは、関係者には知らされない。
しかし『いのち』を受け取ったものを愛するものの世界はより眩しく輝き続け、その体内で、いのちを提供したもののいのちの一部も、鼓動を続けるのだ。
この、美しい世界の一部として。
この映画は私の今年度No.1となった。
これだけの作品を上回るものがそうそう現れる筈はない。
映画館で息子と観る約束をしていたのに、仕事で忙殺されていて観に行けなかった作品だ。
映画館で観るべきだった。
このような素晴らしい作品が、上映館数が少ないというのが日本の非常に残念なところである。