KnightsofOdessa

Adelheid(原題)のKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

Adelheid(原題)(1970年製作の映画)
4.0
[分断と内省についての物語] 80点

フランチシェク・ヴラーチル長編五作目、初カラー作品。前作『ミツバチの谷』と同じくヴラディミル・コーナーの同名小説を基に製作された。荒野を縦横無尽に駆け巡っていた『マルケータ・ラザロヴァー』や『ミツバチの谷』とは異なり、大屋敷を舞台とした心理劇である。イギリスでレジスタンスに参加していたチェコ人中尉ヴィクトルは、戦後に報奨として接収された丘の上の大屋敷を貰う。そこに捕虜収容所からドイツ人の女がメイドとしてやってくる。彼女は前の屋敷の持ち主でこの地域の支配者だったナチス高官ハイネマンの娘アデルハイトだった。ヴィクトルはドイツ語を学び始め、僅かながらコミュニケーションが取れるようになるが、二人の間にある性別/言語/文化/階級/勝者と敗者/歴史の分断を超えることは出来ない。二人の視線も交わることなく、だだっ広い屋敷を漂うばかりだ。

やがてふたりの間に橋が出来始めた頃、ロシアで戦死したはずのアデルハイトの兄ハンス=ゲオルクが帰ってくる。ヴィクトルは彼と対決するが、その勝敗の決め手となったのはアデルハイトだった。ここで二つ目のテーマが浮上する。"内省"である。映画が製作された1970年当時であれば、ナチスの子供世代や孫世代が世に出てきているはずだ。ヴィクトルはアデルハイトの親の罪と本人の罪を分けて考えていたし、彼女にドイツ人全員の罪をなすりつけることもしなかった(イギリス帰りという設定は戦争を知らない世代のいた1970年と1945年当時ですら統治下の故国を知らなかったという時代的な分断を埋める為だろう)。アデルハイトはどうだったのだろうか。連合軍の罪を父親を殺した罪をヴィクトルに着せたのだろうか。彼女がハンス=ゲオルク(ナチス)とヴィクトル(連合軍)を殺そうとしたのが全ての答えである。

アデルハイトの自殺も地雷原を歩くヴィクトルもある程度最初の方で想像出来る。彼らの自殺によって未回収の視線は永遠に回収されることなく、広く深い分断は少しも縮まることのないまま放置され続けている。映画で超えられなかった分断を超えられる日が来るのだろうか。
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