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ザ・スクエア 思いやりの聖域のmOjakoのネタバレレビュー・内容・結末

4.5

このレビューはネタバレを含みます


昨年のパルムドールということで一応観ておこうかと。なんとも意地悪なブラックコメディでありつつ、後半はほとんどホラーでした。恐ろしい映画です。

なんと言っても監督があの「フレンチアルプスで起きたこと」のリューベン・オストルンドさん。今思えばあれはあれでホラーでしたね。。

前作と同じく主人公は富裕層でリベラルな西洋知識人。今回は美術館のキュレーターなのでその極地と言えるかも。
大筋は主人公の美術館でザ・スクエアというインスタレーションが企画される。それは副題の通りその内部にいる人には無条件で思いやりをもって接しなければならない聖域であるというまぁ社会への風刺を表現するデュシャン的な現代アートですかね。ただその思想が登場人物たちの行動にことごとくブーメランで跳ね返っていくと。慈善活動しながら近くに倒れてるホームレスを無視してたり、自分の機嫌の良い時だけ人にお金を恵んだり。

基本はその展示を巡るドタバタなんですが、もう1つそれとは直接関係ない小さな事件が並行して語られてて、出社する時に主人公がスリにあってその犯人に向けて無差別に脅迫状を送りつけてしまう。計画を立てるシーンと実行シーンのテンションのギャップとかが馬鹿すぎて笑っちゃうんですけど、この件も後半重要な意味を持ってきます。

徐々にインテリ達の本音と建前の齟齬からくる欺瞞が露わになっていき、極に達するのがクライマックスのパーティシーン。リベラルを装う金持ちしかいない様なパーティで、アートのエキシビジョンとして野生人が現れる。彼は恐怖に反応するから決して恐れたり、逃げたり、排除したりしちゃいけませんよと。最初はアートですからと笑いながら見ていた観客達の空気が徐々に変わっていき。。
「フレンチアルプス」でも思いましたが、監督は大衆が何か危機的な状況に徐々に気づいていき遂にはパニックに陥るまでの一連の空気感みたいなものを自然に撮るのが凄まじく上手いですね。「フレンチアルプス」は雪山の雪崩でしたが、今回は災害でなく一見すればただの男なのでその難易度も結構上がってるんじゃないでしょうか。

つまり作り手がこの映画で疑問を投げかけるのは、差別や偏見を助長する人間ではなく普段はリベラルでインテリだと自負する人間にこそ潜む、実は欺瞞に満ちたメンタリティ。それってつまりはパルムドールだからとか言ってこの映画を座席に座って観てるまさに我々の事ですよね。映画見たり本読んだり知識は溜め込んでたりはするようだけど、じゃあこうゆう状況になったらどうする?こうゆう状況で本当に助けを求める人に救いの手を差し伸べるられる?という事を突きつけてくる。本当に胸を張って自分は違うと言えるか?後ろめたさを感じたまま目を伏せた事はないか?と。。

トドメを刺す様に映画ラストで主人公は自分の脅迫状で無意識に追い込み傷つけた少年の叫びが耳から離れなくなる。ここは本当に恐ろしい。ここまできてようやく主人公は心から反省し、自分に出来ることを探し始めます。ただこの映画が厳しいのは、安易に主人公に贖罪させたりもしない。気づいた時にはもう遅い。そしてその嘘つきで欺瞞的なくせに個人にも社会にも何も出来なかった情けない大人の姿を子供達は確実に見て目を伏せてるぞ、と。

観ていて少しだけ溜飲が下がったのは、途中出てくる若手広告代理店の2人組。本当に個人的ですがこうゆう人近くにいます。彼らに関してはもはや表現する事をアートだとも思っていなくて、彼らの仕事はいかに大衆の興味を引くかという事のみ。故に1番大きな騒ぎは彼らをきっかけに引き起こされる訳で、作り手側も最も悪意を込めて描いている様に見えました。とはいえ自分も全く彼らの事を悪く言える立場にいない事も痛感させられましたが。。

最後に観ながらどうしても連想してしまった件がありまして。一連のワインスタインのセクハラ騒動で個人的に1番ショックだったタランティーノが謝罪した件ですね。タランティーノの作ってきた映画って特にここ何作かは完全に被差別者=弱者の立場からフィクションの力を使ってでも彼らに声を与え、尊厳を取り戻す様な映画だと思っていて。それだけ強い意思を持った作品を作った人も現実では何一つ行動出来なかったのか、、という点が個人的には衝撃だったんですよね。作品の中で何かを言う事は実はめちゃくちゃ簡単で、もしかしたら一本の傑作を作るより一度でも困ってる人に手を差し伸べたり現実に行動する方が難しいのかもしれないなぁと。そんな事を色々と考えながら観てました。
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