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ザ・スクエア 思いやりの聖域のfocusnovelのネタバレレビュー・内容・結末

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このレビューはネタバレを含みます

レビューではありません。みながら考えてたことを、次の機会のために個人用メモとして残しておきます。

・劇中の鑑賞者と作り手を媒介するものがない

(物理的な意味ではなく)作品や作者に対して、鑑賞者の距離が近く描かれているように感じた。
本来その間を媒介する批評家が不在で、作品や作者の意図を理解せずに鑑賞がなされている感じ。
理想は、鑑賞者が作家の意図を理解し、その意図が作品の中でどう達成されているかを認識するという形。しかし、理解のために解説をする媒介が不在しているため、美術的なものさしによる評価が不可能になっている。
すると、鑑賞者は自身がもともと有している尺度でしか見られなくなる。その1つが道徳。
そのせいか、作り手の意図や作為は道徳を前に簡単に負けて、炎上してしまう。
記者会見で言われていた「表現の自由の限界」が、とても道徳側に寄っているイメージ。
→(スウェーデンの美術館制度は知らないけれども)主人公が学芸員ではなくキュレーターなのも、作り手側の人間に属し、インタビュアーや客との断絶を生むためなのか、と。

かといって、媒介者が間に入ることもできない。
→人の目を向けるためには、長くとも15秒程度で印象に残す必要があるとのこと。
この事は、美術対鑑賞者の間だけではなく、人対人の中でも描かれているように思う。

上のことは、おそらくこの映画と我々鑑賞者の中にも生じている。
→ちょいちょい入ってくる美学的なタームも鑑賞者に分からせようとして用いてはいない。
→映画の鑑賞者からこの映画、監督に対する理解を阻害させようとする機能があるか。
filmarksのレビューにも、監督の意図が分からないという意見が散見されるが、その形が作品や監督の意図にそうのかも?
音響も、コミュニケーションを阻害するように機能してる。
→★誰と誰の間で生じていたか確認したい。
→主人公とインタビュアー、会議中等。


・人間ー猿ー人間性

人間と猿を、モチーフも含めて対比的に配置していることも考える必要がありそう。
→人間が情事にふける間、猿は文字を読むような仕草
→人間が猿のような振る舞いをする(衝撃的でした)
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