もりいゆうた

スリー・ビルボードのもりいゆうたのレビュー・感想・評価

スリー・ビルボード(2017年製作の映画)
4.5
間違いなく最近見た洋画でNo.1。こういう映画のことを名作映画と言うんだろうな。たった2時間でこんなにまで深く「人間」を描けるんだと思わず感心してしまった。

何より入り込み過ぎて2時間あっという間だったのにも関わらず、3、4時間くらいあったんじゃないかと思うくらい重厚な深みがあった。


まず見逃せないのは、終始重たい雰囲気なのに、ところどころで監督の「ユーモアセンス」が光っているところと、「一つのシーンに複数の意味を持たせている」ところです。

例えば、すぐ暴力を振るってしまう頭の悪い警官・ディクソンは警察署内で大音量のイヤホンをしてるんですよ。

だからウィロビー署長の自殺の知らせが入ってきても、しばらくノリノリで踊っているままで最後まで気づけない。

これが後になって効いてくるのですが、その後、ディクソンが夜に一人で警察署内にいるときに、火炎瓶が投げ込まれます。

しかし、ディクソンはイヤホンをして大音量で音楽を聞いているためやはり気づけない。そのせいで逃げ遅れ、大火傷を負います。

このシーンは、「ディクソンがまたやっちゃった」と笑うこともできる一方で、

ディクソンが初めてちゃんと問題のレイプ事件と向き合おうとする大事な心揺さぶられるシーンなのですが、

イヤホンをしていることで目の前のことに集中し真剣に向き合っている様とウィロビー署長への敬意と愛を表現してもいます。

まさに「緊張と緩和」のお手本のような場面で、しかもここは目の前のビルから火炎瓶が投げ込まれ、そこから火事となった警察署内から命からがら脱出するという「アクションシーン」でもある。こんなに心に残るシーン久しぶりに見た!


もっと言うと、その後、警官・ディクソンは広告代理店のレッドをビルから突き落としたということで警察官を辞めさせられるんですが、

レイプ事件の犯人らしき男をたまたま発見し、警官を辞めてから初めて警察官らしく暴力ではなく頭を使って行動するシーンが出てくるんです。

ディクソンは犯人らしき男のDNAを採取することに成功し、ついにレイプ事件の犯人を捕まえたかもしれない!と、被害者の母であるミルドレッドに電話までする。

その後、新署長に署内に呼び出され、「DNA鑑定の結果、犯人ではなかった」と言われるシーンでは、期待させといて「またバカなディクソンがやってしまった」と、今まで積み重ねてきた「笑い(失敗)」があるからこそ、今度は笑いだけでなく「涙(同情)」を誘うのです。

(しかもこのシーン、新署長に「砂漠のある国だ」と言われたのに対して「どこかわからない」と答え、ここでもシリアスな場面におかしさを振りかけているんですよね。マーティン・マクドナー監督、どこまで笑いへのサービス精神旺盛なんだ…)


こんな風に「一つのシーンに複数の意味を持たせている」場面が展開されていて、しかもそれが後々伏線として効いてくるのが本作の素晴らしいところで、

だからこそ2時間という短い時間ながら、2時間以上の重厚感や深みが生まれているのだと思いました。

「一つのシーンで一つのことだけを描かない」というとてつもなく難しいことをやってのけている映画がこの「スリービルボード」で
(『荒木飛呂彦の超偏愛!映画の掟』によるとスティーヴン・スピルバーグがそれに長けているとのこと)、

しかもこういった心に残るシーンがいくつもあって、自分を窓から突き落とした憎き男に怒りをおさえながら優しさでオレンジジュースを渡すシーンとか(しかも飲みやすいようにストロー向きを変えてあげるんだよ!)、あぁあとラストの「道々考えればいいわよ」なんてもう言葉にできない。

とにかく細部の細部までこだわって綿密に練られた脚本が本当に素晴らしい。


ところで、僕が映画に求めるものは一つで、それは「ハラハラドキドキ」だ。

現実とは違う世界に連れていってくれて、その世界に没入させてもらえることこそエンターテイメントの醍醐味で、だからこそ映画を見て、もう何も考えずにハラハラドキドキしたい。驚かせてほしい。そして、できれば見終えたとき、元気になっていたい。

これが僕の映画に求めていることだ。

本やマンガ、アニメや映画など媒体はいろいろあるが、その媒体にしかできないことや得意なことが当然あって、僕はそれぞれに求めるものが違う。

例えば、ある対象について深く考えたいとき、僕は必ず本を読む。

自分のペースで(例えば2ページ読むのに1時間かけていいわけだ)、深く下へ下へ掘り下げていける媒体で最強なのは「本」であると思っている。

「スリービルボード」では「怒りは怒りを来す」という台詞が出てくるが、

それこそ「怒り」について知りたかったら(なぜ怒りという感情が生じるのか、沸き上がった負の感情をどう処理すればいいのか等)、やっぱり本がいいわけです。

一冊まるまる「怒り」の感情について掘り下げられるわけですからね。しかも解決方法まで提示してくれるはずだし。


一方、「映画」は受動メディアなので、そもそも考えることに向いていないと思っていて、だからこそ"考えさせられる映画"も求めていない。

それは本でやるから。自分にとって、あくまで映画は娯楽としてのメディア。

「現実からの逃げ」と言えば、聞こえは悪いが、現実とは違う世界に行き、その世界に没入し「あー楽しかった」とまた現実に戻ってくる。


でも、この映画によってその考えをちょっとだけ改めさせられた。

本にしかできないことがあるように、映画は映画というメディアにしかできないことって当然あって。

映画は映像のメディアなので、絵で見せる。やっぱり「映像(絵)とストーリー」があるとはるかに記憶に残ると思った。

もしこれから、僕が何かに怒りの感情が沸いたり、何が善で何が悪なのかわからなくなったとき、たぶんこの映画「スリービルボード」を思い出すと思う。怒りについて書かれた本の内容ではなくね。


小説家は最初の一行目で結論が言えないから、一言で伝えたいことを言えないからこそ、何万字も紡いで文章を書く。もし何もかも端的に言葉で表現できるなら、ストーリーと映像なんて必要無い。

でもストーリーが無くならないのは、やはり僕たちが"言語化できない何か"を求めているからであり、映画がそれを表現しうるのだろうなぁと思った。

例えば、この映画のメッセージでもあるラストシーンの「道々、考えればいい」なんて、2時間じっくり見た後だからこそ響く言葉であって、一行目の結論としてこれを言われても何も響かないだろう。


最近山ほど映画見てるけど、これほどの傑作、久しぶりだ。これからしばらく見る映画が全てしょぼく見える気がする。

一生に一本でもいいからこんな素晴らしい脚本を描いてみたい。