つのつの

花筐/HANAGATAMIのつのつののネタバレレビュー・内容・結末

花筐/HANAGATAMI(2017年製作の映画)
4.4

このレビューはネタバレを含みます

【恐怖という普遍への飛び】
年末にとんでもない作品が登場した!
上映館は少ないけれど今劇場で絶対観るべき作品なのは間違いないです。

なぜ僕がこの映画をここまで推すのかといえば、映画として非常に「豊か」な作品だからだ。
確かに本作は所謂「反戦映画」という括りに入る作品だが、そういうお行儀のいい枠に収まりきらないどころか最早そういう枠を破壊しにかかるほどのパワーとチャームに満ちている作品だ。

先ず本作は太平洋戦争を目前に控えた日本を生きた若者達の青春映画である。
しかも現代の我々が見ても決して鼻白むことのなく、寧ろとても親近感の湧く人物達による青春映画だ。
僕が一番グッときたのは、彼らが、いや「アイツら」が時代に戦争の禍々しい影が差しつつあることを知りながらも日常に留まろうとする点だ。
自分が手伝いをしている料亭で徴兵祝いが行われているのを目の当たりにしてもまたいつも通り友人達とのモラトリアムな日々に戻ろうとする千歳の姿に僕はすごく親近感を覚えた。
何故なら学生の身である僕自身もいくらニュースやテレビで社会問題を取り上げられても、明日のテスト勉強や宿題に取り掛かるし、まして社会運動に身を投じるなんて可能性は殆どないからだ。
登場人物全員が「戦争はいけません」と唱えるだけの教育テレビのような描写が皆無なおかげで、アイツらをより身近に感じられるしだからこそ彼らが留まり続ける日常に迫る戦争の影がいよいよ強くなっていくことへの恐怖や不安がより切実に迫ってくるのだ。
ここで一つ本作が青春映画としても誠実な証として、彼らの青春の終わりが単に戦争のせいだけではなく彼らの成長と人間関係の移り変わりによるものでもあるという展開が挟まれる点も挙げられるだろう。

そんなアイツらとは対照的でありながら強烈な存在感を残すのは常盤貴子扮する館の女主人。
表向きの温和で優しい印象とは裏腹に、彼女が時折見せる鋭い表情やクライマックスで纏う毒々しいほど赤いドレスから生へのまばゆい執着を持つ若者を吸い尽くさんとするような「死の影」が浮かび上がってくる。
彼女の存在により本作は怪奇幻想映画としての色合いも濃厚に帯びている。

無垢なモラトリアム時期が終焉に差し掛かり友人関係が以前とは決定的に変化してしまうアイツらの焦燥と、日本全体が戦争という巨大な混乱と熱狂の渦に飲み込まれようとするタイミングが合致した時、本作のクライマックスでもある一大トリップシークエンスの幕が上がる。
ここでの音楽と映像のレイヤーの厚さにはただただ圧倒されるしかない。
ダイナミックな唐津くんちの映像と白塗りの兵隊の群れと海に飛び込む主人公達の姿が同時進行で(時には交錯しながら)画面に映り、
そこに唐津くんちの囃子にレコードに能の演目としての花筐の伴奏に主人公達が吹く笛の音色が覆い被さる。
この狂乱としか言いようのないシークエンスの迫力を直に体感することで、我々観客はようやく戦争という歯車が動き出す瞬間の恐怖を全身に叩き込まれるのだ。
言葉にしてしまえば「反戦」という鼻に付くメッセージでも、本作は視覚聴覚、そして物語の進行という三方面から立体的に訴えかけてくる。これは勿論映画にしか出来ない芸当であるため、力技に見えて非常にクレバーな計算と言えるだろう。

このシーンでは生命の源である海に全裸で飛び込むという「再誕生」のイメージが反復される。
この点は実は際どいラインかもしれない。
海に飛び込むという「死」に、「生」のイメージを結びつけることである種の「死への憧れ」を思い起こさせられるのも事実だからだ。
だが、ここで最も重要で強烈な要素を忘れてはならない。
それは病魔に侵され死が迫りつつあるミナが発する「悲鳴」だ。
死の恐怖に慄いた人間が発する悲鳴。
この「悲鳴」が凄まじい密度で繰り出される情報の洪水の中で一番強烈であることが、このシーンの要だと思う。
なぜなら熱狂的な陶酔の渦と、その中で立ち上る死への憧れという幻想への唯一の対抗手段は死への普遍的な恐怖を全身で体現すること、つまり悲鳴をあげることでえるからだ。

これはラストで観客へ投げかけられる問いにも密接に関わる。
「君たちはどう飛ぶのか」という問い。
この問いに、自分なりの回答を出すのなら「正気に戻ること」だ。
熱狂や狂乱の中で正気を保つこと。
お国のために死ぬことが美徳されていた時代の中で正気を保つこと。
「戦争」という巨大な不条理から自分を守ること。
それは死を恐れることだ。
死への甘い幻想や美談に騙されることなく、恐怖という普遍的感情に「飛び込み」悲鳴をあげることだ。
大林宣彦は本作のパンフレットで語っているように「映画は観客にカタルシスを与えることができる」ものなのだ。死を美化することでカタルシスを観客に与えることがいとも簡単に出来てしまう恐ろしいメディアが映画である。
しかしクライマックスにこだまする叫びが、映画全体の圧力によるカタルシスをギリギリで免れ恐ろしいシーンたり得ている。
死が迫る時に人間は本能的な恐怖の念を喚起される。
その普遍的な恐怖を美談や時代の流れで圧迫することは、正に正気の自分を失うことであり、劇中の言葉を借りるなら「卑怯者になる」ことだからだ。

本作を、いや大林宣彦の人生そのものを貫く大きなテーマに「普遍」ということがあると思う。
先述の通り、本作はそのトリッキーな構成や現代への鋭いメッセージの前に、普遍的な間口の広さを持った作品である。
それは純映画的なダイナミズムに溢れる映像を紡ぐ演出や
不穏にインサートされるモチーフが後々に回収されていく巧みな脚本の構成、
観客の誰にでも心に残る豊かな人間描写に現れている。
青春映画としての登場人物の躍動感や愛おしさ、そして切なさ。
常盤貴子が画面に映る瞬間の映像の流麗さは正に映画でしか味わえない感動に満ち満ちているではないか!
このメッセージだけに奉仕せず映画単体の完成度を保とうとするこの作り手の姿勢は、そのまま本作のテーマ自体にも合致している。
更に「普遍」という二文字は大林宣彦の辿って来た映画監督としての人生そのものにも当てはめることができる。
本作「花筐」は、監督の集大成的作品ではない。
監督は軍国少年だった子供時代から現在に至るまでずっと戦争というものへの普遍的な恐怖を持ち続けている、つまり正気を保ち続けているのだ。
だから、戦争の影が再び濃くなって来た現代において急に正気を取り戻したかのように監督の作品を語るのはお門違いということである。
それでも、本作の警鐘がより真に迫ってるということは否定できない。
それは、監督の姿勢の変容ではなく見ている我々の意識の変容によるものである。
だとすれば、ラストで投げかけられる「跳躍」への問いに対して答えを持ちその通り行動すべき時は既にそこにまで迫っているのかもしれない。
だからこそ本作を観に劇場に駆けつけるのは映画ファンにとって、いや全国民にとってマストなことなのだ!必見!!!
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