そーた

ターミネーター ニュー・フェイトのそーたのレビュー・感想・評価

3.9
倫理観、SF、機械

作り手の意図をくみ取ろうとするよりも、
あくまで自分の感性を映画そのものにぶつけてみる。

簡単に言うのならば、
映画というものをどう解釈しようがこっちの勝手でしょ、ということ。

「我々の認識がものに従うのではなく、
ものが我々の認識に従う。」

カントがこう表現したコペルニクス的転回。

これを映画のために言い換えるのならば、
「我々の解釈が映画に従うのではなく、
映画が我々の解釈に従う。」
となるのだろうか、、、

映画というものは不思議なもので、
いち観客の意識次第でいかようにもその姿を変えてしまう。

ただし、カントの認識論のなかで、
人の認識力にそのような自由度は許されてはいない。

が、感性と悟性の形式が世界の様相を規定するというカント思想のエッセンスは、
映画鑑賞の在り方としてなんだか都合がいい気がする。

自分勝手な映画解釈の後ろ楯。
映画解釈に遠慮はいらないんだと思う。

では、
T2の正統な続編と銘打たれた今作。

ストーリーよりもなによりも、
透かして見えたカントの思想。

もし本当にカントを意識しているのであれば、なかなか憎らしいSF作品。

いや、最初に言った通り、
作り手の意図より、自分の感性。

見ようと思えばどのような見方にも変化しうるという都合の良さを後ろ楯に得たのだった。

うん、思った通りに考えてみよう。

さて、
カントは世界を物自体と現象に二分した。

その世界解釈を、
新型Rev-9の内骨格と外骨格とが象徴していると勘ぐってみたい。

すると、見慣れた骸骨様の内骨格に対峙するT -800と、人の生身に似せた外骨格に対峙する人間という構図ができあがる。

この背景にカントの世界解釈の中心思想が潜んでいると考えてみよう。

すなわち、
我々の認識力では物自体を捉えることができず、あくまでその能力は現象にのみ関わるというものだ。

続けてカントは、限定的な認識力を持ちながらも人間自体が物自体であるという人間の二面性を指摘する。

だからこそ、仮言的な行動原理よりも定言的な、すなわち定言命法に従うことで、人は物自体として振る舞うことができるのだとカントは信じ、そこからカント流の倫理観が導かれる。

その倫理観を導く必需品はなにか。
それは、意思という存在なのだと思う。

劇中の登場人物たちも現実に向かい合う強い意思を持とうと模索をする。

自ら戦いに身を投じるグレースや、
戦いに無理矢理に巻き込まれていくダニー、あがく孤高の英雄サラ・コナー、
さらには、忠実に使命を果たそうとする旧式のターミネーター。

だれしもに、意思を持った行動選択の余地を与え、戦いの目的が自分自身とイコールになるタイミング、
すなわち戦いの個人化の瞬間が訪れる。

その意思決定のスピード感の差こそが、
人間と機械の違いを表す尺度なんだろうなと考えてみると、
人間が現実を受け入れるその遅さはやはりデメリットと呼べるのかもしれない。

しかし、愛だ友情だという人間特有の感覚を機械的な観点から眺めたとすれば、それらを快不快の感覚による学習と呼んでも良さそうであり、そのフィールドでは人類の決定力は機械を凌駕する。

そう、今作の醍醐味とは、
機械を代表とする意思決定の早さと、
人間を代表とする快不快の感覚とが、
手を携えて目的を果たそうとするその邂逅にこそある。

目玉となる、
サラ・コナーとT-800との共闘はそれを端的に代表する。

その意思決定と快不快とが調和した瞬間に、倫理観が生まれるのだとすれば、
マシーンと人間をそれらの象徴として描き、両者の止揚としての倫理観という構図がみてとれる。

この倫理観が今作それぞれの登場人物のなかで芽生えるということ。

そして、その出現条件が、
機械の意思決定力と人の快不快の感覚との折衷というアイディアこそが、
今作の原動力なのだろう。

その原動力に、
T-800型ターミネーターが突き動かされるという展開には、正直胸が熱くなってしまった。

しかし、ストーリーとしての物足りなさは残る、、、

倫理観を描いてみせたSF作品と見れば新しい試みではあったが、
ターミネーターシリーズとしては失敗だったのかもしれない。

という意味でやはり、
T2という作品の偉大さが際立つ形となった印象。

僕としてはカント哲学の新たな思考の糧を得た気持ちで清々しい。

いやいや、もしかすればカントの倫理観自体、十分SFチックなのかもしれない、、、
そーた

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