LEONkei

負け犬の美学のLEONkeiのレビュー・感想・評価

負け犬の美学(2017年製作の映画)
2.0
人間が生きる中で負けだとか勝ちだとか、そう言った白黒つける思考はそもそも自分は持ってはいない。

例え社会に背を向け何かに怯え希望も持てず後ろ向きに生きていたとしても、それもまた1つの生き方。

夢や希望に向かって我武者羅に突っ走るのもいいし、好きな人に思い焦がれ夢中になるのもいい。

泥臭くグシャグシャになって生きるくらいの方が、人間味があっていい。

生き方に勝敗なんて関係ないし区別する事も意味はないが、もし仮に勝ち負けを言うなら誰もが生きてるだけで何かと戦っている。


3年間勝ち星から遠ざかり49戦13勝33敗3分と言う散々たる成績で、妻に幼い子供2人を抱える45歳の中年プロボクサーは戦い続ける。

何故、彼は負けても負けてもリングに上がるのか…、単に生活の為や家族の為ではないと自分は思う。

しかしこの邦題はセンスなし。


ボクシングを題材にする映画は数多く有るが、それはボクシングが単なるスポーツではなく人生そのものだから。

大抵のスポーツは厳しい練習を積み重ねるも本番の試合では、playやenjoyし練習の成果を発揮したり例え負けても爽快な気持ちになる事も少なくない。

ホームランやゴールやトライやシュートを決める快感はあっても、相手を殴り倒しての快感などある筈もない。

しかし何故ゆえにボクシングは過酷な練習の連続で、本番の試合では生死をかけてまでリングにあがるのか…。

最も恐ろしのは極限までに鍛え抜いた肉体にムチ打つように、ボクシングには減量と言う過酷な試練が付き纏う。

更に性欲を制限され人間の生きる喜びの欲求を押し殺してまで戦う意味は一体何処にあると言うのか…。

その人間の欲を削ぎ落とし目の前の相手をただ倒す為だけにリングに上がる事は、人間を捨てなければ恐怖に押し潰され相手に殺されるだけの肉の塊でしかない。

紀元前4000年古代エジプトから既にボクシングがされたとされ、古代ギリシャに於いても盛んに行われ戦うスタイルは今と殆ど変わっていない。

古代ボクシングは別としても過酷な練習に耐え命をかけて戦う理由は、生きる喜びを実感できる事にあるような気がする。

現代日本社会に於いて有事を経験した事ない人間が、生きる実感を味わっている者など皆無だろう。

望もうが望まなかろうが人生は常に何かと戦って生きて行かなくてはならず、その戦いの中で生きる喜びを感じ得る事ができた時…それが真の勝者かも知れない。

生きる喜びを知る為に、その戦いは永遠に続く..★,
LEONkei

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