odyss

マーラー 君に捧げるアダージョのodyssのレビュー・感想・評価

3.5
【現代的な芸術家像と音楽】

原題は「ソファーの上のマーラー」。つまり、(フロイトの)精神分析を受けているマーラーということですね。作曲家マーラーが有名な精神分析学者フロイトに診療してもらったのは事実。この映画に描かれたとおりだったのかどうかは知りませんが、映画の最初に、事実としては違っているかもしれないが真実を描いているという意味のテロップが出ますから、製作側としてはそれなりに期するところがあったのではないかと思います。

私は個人的には精神分析というものを信用していません。巷にあふれている通俗心理学の本にもあまり興味がない。一般には心理学者で通っている○山○カなんかは、単なるエッセイストに過ぎない似非学者だと思っています。しかし、マーラーが生きた時代は当時としては新しい学問と見られた精神分析をある程度信じていた。そしてマーラーなどの芸術家もその影響下に作品を創ったわけです。われわれ日本人(の大部分)から見ていかにキリスト教が荒唐無稽であろうと、その影響下に創られた(例えばバッハなど)多数の芸術作品の価値を否定することはできないように、似非学問であった精神分析学の影響下に作られた音楽などもやはり無視することはできないのです。

そもそも、マーラーの音楽自体が、クラシック音楽の範疇に入ってはいるけれど、19世紀末から20世紀初頭の混迷の時代を象徴するように、一筋縄ではいかない代物です。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンといった古典派はもとより、シューベルト、シューマン、ブラームスと言ったロマン派の音楽と比べても調和性や統一性に欠けている。芸術が「神」であれ「人間性の理念」であれ「芸術のための芸術」であれ、崇高な高みに向かって創られていて、作品そのものにもそれが感じられた幸福な時代の刻印をすでに失っており、俗っぽく、ごった煮的であり、そこがいかにも現代風なのです。

さて、この映画の作りは、まさにマーラーの生み出した芸術作品のそうした性格をそのまま映画としてなぞっているかのように見える。マーラーとフロイトの対話によって、マーラーと妻アルマとの関係がさまざまな見地から照射されるだけではなく、途中にアルマの実母やマーラーの実妹、その他の芸術家の独白が入ることで、多数の人物の視点が確保されていて、マーラーという人物の複雑さ、彼が置かれた混迷した状況が容赦なく抉り出され、それがまたマーラーの生んだごった煮的な音楽と対応しているように感じられるわけです。

この映画では、未完に終わったマーラー第十交響曲の第一楽章アダージョが全体をおおうように用いられています。マーラーの交響曲の特徴の一つは緩徐楽章の美しさにあることは周知のとおりで、有名なのは『ベニスに死す』を初めとして映画にも何度も使われた第五交響曲の第四楽章アダージェットですが(そしてこの映画でもちょっとだけ使われていますが)、ほかに第六交響曲の第三楽章や第九交響曲の第四楽章がありますけれども、第十交響曲のアダージョを用いたのはかなり意図的なのではないかという気がします。というのはこのアダージョの音の進行は調性音楽の枠を超えたところがあって、美しいには違いないけれどどことなく不安で、近代の信じていた人格だとか個性といった仮構を解体するようなところがあり、その意味でひたすら耽美的な第五交響曲アダージェットや、涅槃という言葉を想起させる第九交響曲第四楽章とは性格を異にしている、敢えて言えば、きわめて現代的な性格を持っていると考えられるからです。

使われた音楽と、映画の構想とが、そうした意味で照応関係にある。そこがこの映画の優れたところだと私は思います。

マーラー役のヨハネス・ジルバーシュナイダーは、マーラーにそっくり。だいぶ前に作られたケン・ラッセルの映画『マーラー』がありましたけど、あの映画の主演よりこちらのほうが実物に似ていますね。
対して、アルマ役のバーバラ・ロマーナーはイマイチ。何より、アルマといえば当時のドイツ語圏の芸術家たちをとりこにした美貌の主で文字通り女神のような存在だったのに、この映画を見るとそういう感じがしません。その辺にいくらでもいるオバサン程度。もっと美人の女優、いなかったのかなあ。先年作られた『クララ・シューマン 愛の協奏曲』でもクララ役の女優が全然美人じゃないのにびっくり・がっかりしましたが、最近のドイツ語圏って美人女優がいないんですかね。ダイアン・クルーガーはドイツ人だし、ドイツ人に美人がいないわけじゃないと思うんだけど、まさか映画のヒロインに美人を使うことがタブーになってるんじゃないだろうな(笑)。

アルマが美人なら80点だけど、美人じゃないので70点!
odyss

odyss