そーた

アンダルシアの犬のそーたのレビュー・感想・評価

アンダルシアの犬(1928年製作の映画)
3.5
実験の考察

ミレーの『晩鐘』を見たダリが、
「あの男は帽子で勃起を隠してる。」
と言ったそう。

なんじゃそりゃ!?

いやいや。
こんな事で驚くのはまだ早いんです。

ダリがルイス・ブニュエルと作りあげたこの実験的な短編作品。
まぁ、もう本当にこれこそなんじゃそりゃでした。

衝撃的なオープニングから始まって、
次々と突っ込み所満載なシーンが繋ぎ合わされていく。

ヒラヒラの服を纏った自転車の男。
その男を待ちわびる女。
するとバタリ、自転車の男が倒れてしまう。
女は男からヒラヒラ服を剥ぎ取ってベットに並べる。
何処からともなく不意に男が部屋に現れ、
その男の手に空く穴からは蟻が這い出てきます。

このあたりまで観るともはや考えるということが馬鹿馬鹿しくなってくる。

そんな矢先に男女が揉め始めて何だかあやしい雲行き。

すると部屋の中で男が女を追いかけ回し始めるもんだから、
何だかこちらもハラハラしてくる。

そうして八方塞がりになった男が取った行動が!

このシーンで僕の中に蓄積されてきた意味不明なものが臨界点を越え、
「笑い」に状態変化を起こしてしまいました。

久々にこんな笑ったというくらいに笑った。
何度も見返して笑った。
後で思い出しては「ふふふっ」と笑った。

するとふと、中学生の時に『すごいよマサルさん』を部室で初めて読んだときの衝撃が蘇りました。

部活が嫌でたまらなくて、
マサルさんのシュールな笑いだけが救いだったあの頃。
夏の暑さにジメジメの汗と、部室の不潔さの中で、あの無意味なシュールさが異彩を放っていた。
僕にはお守りのような感じがしました。

あの感覚。
いつの間にやら影を潜めてしまった。

何事にも意味を見いだそうとする事が大人になるということならば、それは人としてむしろ退化してるんじゃないのか。

な~んて、思えば『晩鐘』と勃起を結び付けたダリの感覚ってなんとも中学生的で、教科書の偉人に落書きをして喜んだりするのと大差がない。

意味もなく笑ったり、無意味な言動に全力投球したり、かつて持っていたそんな僕のエッセンスが社会性という溶媒にとことん薄められてしまった。

溶媒が揮発性ならば蒸発するでしょうし、そこに溶け込んだ感性は加熱すれば濃縮され、冷やせば凝固するかもしれない。

少なくとも、僕のかつての感性がまだ残存していることを確かめることはできたわけです。

この映画。
僕にとっての定性実験だったんだ。

浜辺での男女のやりとり。
定性された感性で捉え直せば、
なんともいえない空気感。

何だかとても清々しい気持ちになりました。

ブニュエル先生に助手のダリさん。
考察レポートは僕の頭のなかにしまってあります。
そーた

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