今回は、楽しくもなく、明るさもない内容となります。
気を滅入らせては申し訳ないので、苦手な方は閉じてください。
設問:母親と恋人が溺れている。どちらか一人しか助けられない。どちらを助ける?
問いに対し、4人がそれぞれ反応する。
1「母親は代わりがいないから、母親。(って答えればいいんだろ?)」
2「ふざけるな!正解なんてあるか!」
3「(沈黙)」
4「ダメだ。どれだけ考えても答えが出ない。」
この設問には正解で括れるものがなく、出典元では"安易に答えた"1のみが明確に不正解とされました。2と3と4は設問への回答としては等しく未回答であるものの、相違点は4の人物だけ、設問の時間が過ぎた後も考察を続け、自分の答えを悩み続けた事。
実はそれが真の正解。
設問の本質は、いずれ訪れるかもしれない残酷で辛い状況を空想し、耐える事であったから。
とても苦しい。
映画を観てここまで辛い気持ちになったのは久々で、気持ちの整理を付けるのが難しい。
こういった、大手シネコンで広く扱われ、広告も頻繁に流れる邦画には、得てして野暮な説明描写が含まれると感じることは多く、本作についても例外でないというのが正直なところ。映画として優れているか?という質問には歯切れも悪くなる。
ただ、その過剰包装をほどいた先にある物語の軸が、今の僕には耐えられないほどに重すぎて、表面の手触りを確かめる暇がなかった。
子供の頃、祖父を亡くした時に、悲しむ反面どこか冷静さの残る自分に驚いた記憶がある。病に伏せている事は知っていたため、子供心に、いつかその日が来ることを理解し、備え、受け容れる準備が整っていたのだろうと今では思う。
僕は、不慮の事故で親しい人を亡くした経験がありません。故にその心境を知らない。ましてそれが、愛する我が子だったら、など、文章に起こす事も、想像する事も、耐えがたい。
そんな何の準備も出来ていない僕の眼前に突き付けられたのは、愛娘と同じ年頃の女の子の脳死という、あまりに残酷な運命。
体温を感じ、鼓動もある、ただ目を覚まさない我が子の手を握りしめる親の気持ちとは、どれほどのものなのか。
つい先日、中国のヒトゲノム編集による双子誕生のまことしやかなニュースが目についた。
科学の踏み込む境界と言うのはデリケートであるものの、一般的な倫理観に基づく民意を想像するのは容易い。でもそれはあくまで第三者の見た冷静な意見であり、多くの人は、いざ当事者となれば途端に見方を変えるように思うし、僕はきっと掌を返す。
だから、緩やかに確実に、禁忌を犯していく母親の姿に、自分自身をかさねてしまう。
盲目的な「母親」と「科学者」の二人の当事者以外、彼ら家族も含めて誰しもよぎった筈。
「命を弄んでいる事にならないか」と。
踏み込んではいけない領域をとうに超えた母親に怯えつつ、痛々しい程に「娘」にすがる彼女を責める人はとうとう現れない。機械の力で拍動を続ける中途半端な希望が、親にとってどれだけの絶望だったかと想像してしまうから。一般論の綺麗事なんて、きっと刃物でしかなかったろう。
人の死の時は「脳死」か「心停止」か。
"安易に答える"ことのできない問いかけだけれど、彼女が到達したのは「受け容れた時」だったのだろうと思う。
禁忌を犯した歳月は、愛娘との別れの準備期間にはあまりに短く、
呼吸を止めて苦痛に堪えるにはあまりに永い。
僕は駄目だ。
この「残酷な空想」を目の前にして、娘と抱き合い泣いて震える事しかできなかった。
彼女のように強くある事はできそうにない。
せめてこの「残酷な空想」が、
一人でも多くの人にとって「空想」のまま過ぎ去って欲しいと、
そう願わずにいられない。