ローズバッド

万引き家族のローズバッドのネタバレレビュー・内容・結末

万引き家族(2018年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます


まずは、是枝監督の功績をまとめると…

●柳楽優弥を発掘
●広瀬すずを発掘
●福山雅治・綾瀬はるか、大根スター俳優の活用法を発明
●TV局主導の映画の中で、常に商業性と芸術性を両立
●小津安二郎から連なる邦画ホームドラマの系譜を継ぐ
●向田邦子などTVホームドラマの系譜を継ぐ

そして、海外にも影響を与えている。
特に「子供たちをイキイキと描く」にあたって、是枝作品を参考にしない監督はいない。
(米国『フロリダ・プロジェクト』、韓国『わたしたち』etc.)

そして何より、是枝作品は「“普通”から、ちょっとだけ外れた人々」に寄り添う視点で作られてきた。
彼の映画によって、励まされたり、想いを巡らしてきた観客が世界中にたくさんいるだろう。
この事こそが、最大の功績である。

映画の好みは人それぞれだが、人間観察力・脚本の構成力・役者の能力を引き出す力…など、是枝監督の水準の高さに異論をはさめる人はいないだろう。
そして『万引き家族』は、間違いなく現時点において、彼の最高傑作だ。
最高傑作のタイミングで、パルムドール受賞できた事は、本当に幸運であり、本作がより広く観られるであろう事が素晴らしい。

そして、
●安藤サクラを世界に知らしめた
という功績が、未来に大きな意味を持つ事になるだろう。

----

まれに「万引き家族のくせに、絆なんて、けしからん」といった感想を目にする。
「違法か、適法か」だけが、価値判断だなんて、まったくの時代遅れだ。
現代の意欲的な映画は、「善悪は両義的であること」を大前提にしている。
アメコミ商業映画でさえ、善悪は揺らぐ。

この世には「白・黒」など無く、すべては「グレー」であり、答えなど無い。
そして、「グレーの世界」を「考え続けながら、生きていく覚悟」が問われている。

「絆」という言葉を、はにかみながら口にした信代[安藤サクラ]が、結局、最も重い刑事責任を負うことになった。
(監督は震災以降、乱発される「絆」という言葉に違和感を語っている)
信代は、楽しい家庭が欲しかっただけかもしれない。
特に、子供が欲しかったのだろう。
家族と暮らす事で、自分の辛い子供時代を生き直していたのかもしれない。
しかし、カネ目的で繋がっていた事も事実だ。
祥太やりんを虐待から救い、愛される感覚を与えた一方、万引き窃盗をさせ、社会と触れあう機会を与えなかった。
信代は、接見室のガラス越しに、祥太に実の親に会うことを勧めた。
「絆」を求めた結果、犯してしまった罪を自覚したからだ。
彼女が社会に戻った時、また家族を持とうとするだろうか?
彼女自身にも、「答え」はまだ無いように思う。

悪事で成り立たせる生活に終止符を打ったのは、他でもない、ずっと育ててきた我が子同然の祥太であった。
そのきっかけ、祥太に「超えてはならない一線」を教えたのは、両親ではなく、赤の他人の駄菓子屋のジジイ[柄本明]である。
ジジイは、生活苦の万引きには目をつぶってきたが、「うすうす悪いと気付いている事を、自分より弱い立場の、愛する妹にさせる」事は許さなかった。
ジジイの判断は「違法か、適法か」などではない、当事者への想像力に満ちたものだ。
ジジイが示した「一線」が、祥太に万引き生活への疑問を抱かせる。
愛する両親は、自分に万引きをさせているのだ。
祥太の疑問に対し、治[リリー・フランキー]は「並んでる物は、誰の物でもない」という屁理屈しか答えず、信代は「店が潰れなきゃいいんじゃない…」としか返せない。
両親は、「愛情」を注ぐ事は出来ても、「成長」をさせる事は出来なかったのだ。

是枝監督は「万引き家族であっても、絆は素晴らしい」などと、短絡的な答えは描いていない。
きっと監督自身「わからない」のだと思う。
ただ、それを「ずっと考えていく覚悟」が、本作に満ちており、その力強さに感動するのである。

----

ワイドショーのコメントと、誘拐被害家族への囲み取材の一瞬のシーン。
これは、ありがちな「マスコミ批判」などではない。
「想像力を欠いた安直なジャッジ」の象徴だと捉えるべきだろう。
もし、本作が実際の事件であり、それを報道によって知ったとしたら、我々は“万引き家族”の一人一人の半生に、想像をめぐらせるだろうか?
不道徳な社会不適合者の集団として糾弾し、そして、すぐに忘れていくのではないか?
映画という物語の形をとることで、他者への想像力を喚起させる。
そして、それをずっと考え続ける。
是枝監督の作品の根幹である。

----

忘れがちだが、本作の前半部はホームドタバタコメディだ。
重い題材を語るために、まず、笑いであたためる。
「塩をなめると寝小便しない」とか「労災おりるなら折っちゃえば」とか、大量にギャグが仕込まれている。
ずっとニヤニヤしながら観ていると、胸にせまる瞬間が突然やってくる。
りんと亜紀[松岡茉優]が髪を重ねる鏡、りんと信代が同じ傷を知る入浴、お婆ちゃん[樹木希林]の膝枕に甘える亜紀…など、特に女性同士の心の距離が近付く瞬間、涙を堪えられない。
交わされる言葉を超えた、優しさ・暖かさを彼女たちの姿から感じるからだろう。

----

「死」は、唐突に訪れる。
りんの乳歯が抜けた朝、お婆ちゃんはもう目覚めない。
白髪や、忌中の張り紙など、「死」の描写はわずかにとどめ、想像の余地を大きくとる。
それに対し「生」としての「食事」を丁寧に描く事は、是枝演出のトレードマークだ。
さらに今作では、「性」の描写が濃厚だ。

信代の妙にエロいスリップ姿、素麺を口に含んだままキスをする。
夏の通り雨を合図に、汗がべっとりにじむセックス。
「出来た」と喜ぶ治。
ふたりの性生活に何があったのか、どこか悲しい過去を予感。
全裸の背中についたネギを舌で舐めとる、濃厚な愛の触れあい。
このシーン全てがギャグでもあり、子供の帰宅で大慌てというオチがつく。

対して、亜紀がブラやパンツを見せる覗き部屋は、湿度も感情もない空虚な空間。
常連の4番さんとの個室でも、膝枕をするだけ。
(同じタイプの人間と察知し、抱きしめる →ここだけ、やや唐突で蛇足に感じる。)

----

話運びは、ミステリーの謎解きで引っ張る構成。
家族6人の素性や過去が、会話の断片から、徐々に読み取れるようになっている。
それらを組み合わせ、推理するのが、観客の役割りである。
例えば「名前を変えること」が、人間関係の推理のヒントとして、何度も用いられている。
それらのヒントを出すタイミングと分量が、もの凄く巧みに計算されている。
そして、観客が空想する余白も設けられている。

「ごく日常的な会話の中に、伏線や本音、そして、金言が潜んでいる」という脚本術は、是枝監督の十八番である。
今作では、それがさらに磨かれて、ちょっと変化しているように感じた。
その変化は、編集リズムにも影響を与えているように思う。
もう一度観ないと、何とも言えないが、現状の解釈では「役者の演技(表情・身体から醸し出されるもの)が、すべて語ってくれているので、セリフの仕掛けは控え目にする」という判断をしたのではないかと思う。

----

本作が、是枝作品のネクストレベルに達したのは、「監督と役者」や「役者と役者」の化学反応が起きたからだろう。
そして、それを引き起したのは、間違いなく、安藤サクラだ。
本作を観るにあたって「安藤サクラvs松岡茉優」の演技勝負という観点も持っていたが、比較するまでもなく、安藤サクラは別次元だった。

松岡茉優自身も、講演会で“絶望的な敗北”を認めていて、その愚直な姿勢に感涙しそうになった。
たぶん腹の中では、悔しくて悔しくて仕方ないのだろうと思う。
松岡茉優に対し「カワイイ」と褒めそやす声は多いが、本人にとって内心そんな事は重要でないだろう。
とにかく、安藤サクラに勝ちたくて仕方ない、憎んでいるくらいだと思う。
安藤サクラに「カワイイ」なんて評価する人はいない、その事自体が、彼女の強みの一部でもある。
「カワイイ」なんて声は、今後の松岡茉優にとっての邪魔になるだけだろう。

それにしても、安藤サクラは計り知れない。
やはり特筆すべきは、終盤、取り調べされる表情のクロースアップ。
「子供が産めなかったから、お母さんと呼んで欲しかったの?なんて呼ばれてたの?」と訊かれ、堪えきれない涙を手で拭う、長い長いショット。
表情から、彼女の過去や頭の中に想いを巡らせる、というより、思考とは別の、感情がそのままスクリーンから伝播するような、異様な迫力を持ったショットであった。
メイキングによると、安藤サクラに知らせず、脚本にない質問を投げかける監督のアドリブによって、反応を誘発した結果、「役者の中から溢れ出てくる特別なものに立ち会った」らしい。

樹木希林は、毎度お馴染みのお婆ちゃん役だが、今作は、小汚いババアとして、入れ歯を抜いているとはいえ、顔つきから違っている。
髪型や服装なども含め、いつものどこか威厳のある感じではなく、本当に小汚く見える。
みかんを皮ごとねぶるように食べる横顔など、コメディ要素を牽引する役割りも、しっかりこなしている。
夏の砂浜で、家族を見守る表情は、それだけで胸を締めつけられる。