バンドというアート。
音楽が本質であればバンドは手段となる。
メッセージが本質であれば音楽は手段となる。
パフォーマンスが本質であれば観客は手段となる。
そのどれもが手段ではなく本質たるものが唯一バンドというアートだとイアンが教えてくれる。
音楽は行為だと定義する(チケットのもぎりもステージの準備も観客が来場することも全てが音楽である)musickingという概念とイアンは同じことを言っているんだと思う。
ハードコアは様式美だという言葉。
エモと括られる事を拒んだ姿勢。
同じところに留まりたくない。
変わり続けたい。
これらの想いは音楽を行為だと捉えれば至極当然なことだと気づく。
音楽を、楽器や楽曲やパフォーマンスだと思っているとそれにはずっと気付けないのだろう。
人は変わり続ける。
変わらないものは一つもない。
イアンにとってフガジにとってバンドはただのライフスタイルなのだから誰からも自由であろうとするのは当然だと思う。
そしてバンドがライフスタイルであるならば、ある種の感情のみを(例えば怒り)フルスロットルで奏でる音楽には限界があり、表現したいことと共に音楽表現に幅が生まれるのは当たり前だ。
僕は破壊的なパワーコードからアルペジオに感情を込めるようになるハードコアバンドの遍歴にいつも感動する。
ブルーハーツが「未来は僕等の手の中」から「手紙」を表現できるようになる事に心が打たれる。
ライフイズミュージックというならばハードコアはポストハードコアではなくアフターハードコアを奏でるのが必然だろう。