カラン

父、帰るのカランのレビュー・感想・評価

父、帰る(2003年製作の映画)
4.0
音信不通だった父が12年ぶりに帰還し、息子2人を旅行に連れ出す。。。アンドレイ・ズビャギンツェフの長編デビュー作。

☆冒頭 

劇中で最も要素数が多いショットが冒頭にいきなりやって来る。水中撮影で、なかなかの速度で湖底の岩や苔を映しながら推進していき、沖合に沈んだ小舟を捉えるのは非常に不気味である。小舟の中をしっかりと映しだすが、もちろん何もないし、誰もいないのだが、その不在の意味を問うようなことをせずに、フレームは水上にあがり、子供たちが監視用のやぐらにのぼって、水に飛び込む遊びをしているシーンにジャンプする。ここは水から水なのでジャンプでないように見えるが、ジャンプカットであるのは映画を最後まで見ればわかる。あるいは、回想する主体なきフラッシュバックであるというべきか。沈没した小舟は父の不在の象徴である。

☆映画空間の撮影 

ロシアの田舎は大きな明るい青空と湖面で、室内もがらんとしており、5人が食卓に着席しても部屋の空間は余っている。人物に対して空間の占める割合が非常に高い。カメラは近接からの撮影も十分にするが、空間の広がりを描きだすことに余念がない。

☆エディプスコンプレックス

12年ぶりに、父が帰ってきた。父は釣りにでかけようと、兄弟を旅に連れだす。湖まで車で、また、離島までは小舟で移動するので、本作が執拗に描き出すがらんとした映画空間と対比されて、父との距離が不意に接近し、緊張感が高まるのであった。ところで、冒頭の空虚な小舟の後で、子供たちが高いやぐらから水の中に飛び込むシーンで、兄のほうは飛び込む。他方で、弟は飛び込めずに、やぐらの上で1人震えているのを母が抱きしめて慰めてくれたのであった。12年ぶりの父との近接に兄は適応を示すが、他方で、弟はいじけ、苛立ち、緊張を高め、何度も父と衝突する。

そういうわけで、この映画は弟の精神発達を描きだそうとしているのが分かる。トラブルの連続で、父が兄を殴る。それを見ていた弟が父への拒絶反応を爆発させる。弟は浜辺から逃げ出し、冒頭のように、離島のやぐらに登る。今度は、冒頭のように母ではなく、父がやぐらを登って弟を追う。父は落下する。父を乗せた小舟が水中に没していく。すると、弟が「パパー!」と叫ぶ。この後、家族写真が画面に映し出され、父が消えている。ここで冒頭の沈没した空虚な小舟の水中ショットが、写真の中の父の不在と繋がる。

☆去勢の幻想 

恐るべき父との交錯は幻想であったことになる。これは錯覚オチになるかもしれないが、そもそも去勢とは幻想的に生起する出来事であるので、父の帰還と共に過ごした短い旅が幻想であるというのは、十分に理解できるものである。しかし、やぐらから皆のようにジャンプできず、母に慰めてもらいたいマザコンの弟が、実際に不在の父を自分の精神の中で殺害するために作り上げた幻想であるならば、なぜこの物語には兄も一緒に居るのだろうか。そして、幻想の終焉、つまり、死せる父(=空虚な小舟)は最初から存在していなかった(=写真から父の姿だけが消えている)という仕方で去勢の失敗を正当化するテロスを、兄と弟の2人で確認するのはなぜなのか?これでは去勢回避を正当化する弟のマザコン的幻想ではなくなってしまう。本作は物語をしくじったついでに、ミステリーに変貌してしまったのだろうか。

☆離島で父と1人か2人か 

本作は精神発達とミステリーを混ぜ合わせて、鑑賞者に謎を押し付けて終わる。しかし、これは監督のアンドレイ・ズビャギンツェフと脚本チームの失敗であると思う。①錯覚オチをやるのであれば、兄は旅の最初か途中で兄だけバスで帰せばよかったのだ。それによって、セリフの数を減らして、広々映画空間をさらに広く拡張できたし、いっそう緊張と孤独が深まった。

逆に、②兄弟を旅に同行させるならば、父のゴーストを出現させなければならない。フロイトの「トーテムとタブー」(1913)で、女を独占する父を息子たちが殺して、父を食べてしまったという神話がある。父が死んで、湖の底からも写真からもいなくなりました、とはならない。死んだ父は息子たちの腹のなかで甦り、息子たちを支配するようになるのである。したがって、本作は父をゴーストとして蘇らせ、息子たちをいっそう恐怖で縛り付けるようにしなければならなかった。弟は父のゴーストに怯え続けなければならないのはもちろんだが、この②の展開ならば兄もまた死せる父を内面化しなければならない。

しかし、兄は去勢不安を既にやりくりしたことになっているので、②の展開には持ち込めないのである。この兄は弟よりも明らかに自立しているのだが、精神発達が遅延しておりマザコンと去勢不安に怯えているはずの弟に、父が落下死する直前の魚釣りでは、言葉で丸め込まれたりする。兄は人物の造形がうまくいっていないのは明らかだ。やはり①の展開をするべきだったのだろう。

☆まとめと雑感 

本作は「田舎っていいな!」というステレオタイプな空と水面なのである。明るく素朴であるが、要素数が少なくCMで映し出されるリゾート地のように、ずっと観ていると飽きる空と湖である。新藤兼人の『裸の島』(1960)の空と海と宿禰島(すくねじま)のような無言の永遠性は、ほとんど感じることができない、ライトな映画空間である。35mmで撮っているのだろうが、美点が少ない。フィルムグレインがなければ、デジタル撮影をやったのかと勘違いしそうである。嵐の場面では、ブルーバックでセット撮影したという感じがかなり前に出てしまっている。しかしなによりも、精神発達の物語を展開するのに失敗して、ミステリーと交錯させてしまい、結局は鑑賞者に謎解きを委ねてしまうのが問題だ。

諸々の問題を指摘したが、本作はヴェネツィアで金獅子賞を獲っている。2003年の次席は『座頭市』であった。後者の予算は10億円程だと推定すると、前者はその20分の1ほどなので、相当に健闘しているだろう。しかしヴェネツィアほどの映画祭であっても受賞というのは相対的なものなのだろう。強力な映画が他に出品されるかどうかに左右されるのである。

DVDで視聴。
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