ヤチャマ

来るのヤチャマのネタバレレビュー・内容・結末

来る(2018年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

こわいけど、面白いから、観てください。

あくまでも個人的な意見ですが、このキャッチコピー、秀逸だと思っています。

中島哲也監督の「来る」、公開初日に観て来ました。

「あれ」に呼ばれてしまったら、けして逃げる事は出来ない。

現代人が抱える様々な虚構。
ネットの中に存在するウソの自分。
子育てのストレスや不倫という背徳。
恨み、嫉み、僻み。

そんな「人の心の闇」を目指して、「あれ」はやって「来る」。

だけど「欠けたところの無い人間」なんて、どこにもいないのだから、僕もあなたも全ての人は、例え純粋だろうが邪悪だろうが、誰もが皆、平等に呪われる可能性がある。

全ての人の元に、「あれ」は来るのです。

それがこの物語の一番恐ろしい部分ではないでしょうか。

小説版では「ぼぎわん」と呼称されるその化け物は、映画版では単に「あれ」とか「それ」とか呼ばれていて、全く正体が掴めません。

小説で描かれている「ぼぎわん」の姿は、非常に禍禍しく、恐ろしいのですが、あれをそのままCG等で再現してしまうと、かなり安っぽくなってしまうのではと懸念していたので、この変更点は個人的にはアリだと思いました。

「あれ」は、普段はどこか遠くに居て、時々やって来ては、まるで猛獣が獲物を捕食するように、残忍な方法で人を傷付け、遂には命を奪って行きます。

喧騒に沸く居酒屋の片隅で語られる怪異。
どこにでもあるような食堂で繰り広げられる血の惨劇。
まるでバイト感覚で、和気あいあいと巫女の支度をする女子高生たちはまだ、後に訪れる大惨事を知りません。

「それ」がいつ、どこで、どのような形で襲ってくるのか、全く分からない異様な緊張感の中、スクリーンは登場人物たちの救い難い程の「心の闇」を残酷に映し出して行きます。

敢えて主人公を定めず、シームレスに移行していく視点で、見たくなかった現実を、まざまざと目の当たりにしていく居心地の悪さと、明らかにそこを目指して近付いて「来る」恐ろしい存在。

これは「映画の主人公」にだけ起きる怪異ではなく、もしかしたら僕自身もこの物語の登場人物の一人なのかも知れない。

そんな風に感情が揺さぶられます。

そんな中、「私バカだからさぁ」と笑って話す真琴だけが、自らの「欠けたところ」を受け入れ、それでも尚、他人に愛を示そうとする、希望のような存在に見えました。

しかし、そんな真琴も遂に「あれ」の餌食になってしまいます。

そしてクライマックス。

この物語、最強の鬼札(ジョーカー)が登場します。

真琴の姉にして、日本最強の霊媒師・比嘉琴子による、日本中の霊能者、国家権力までをも巻き込んだ大がかりな「祓い」のシーン。

中島監督がホラーを撮ると、こうなるのか!と思わせる、怒涛のエンターテインメントが展開されていきます。

これまでのJホラー表現に、CG等を駆使したハリウッド的エンターテイメントを加えた、中島哲也監督ならではのホラー映画だと感じました。

個人的には特に、CGを使った「血」の表現がカッコ良くてザワザワしました。

それにしても。

オムライスの国とは何でしょうか?

人も物も、全てがオムライスで出来ている国。

そんな風に、自分の好きな物だけに囲まれて生きたいと願う幼い心は、逆に言えば自分の嫌いな物は全て排除してしまいたいという残酷な願いに思えます。

まるで子供が理由もなく、ただグロテスクだというだけで、虫を握り潰してしまうような、そんな純粋無垢な残虐性。

ラストシーン。

夢の中でまで、ここではないどこかへ連れ去って欲しいと歌う、知紗の無邪気で残酷な願いは今も、「あれ」を呼んでいるのかも知れません。
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