海老

母さんがどんなに僕を嫌いでもの海老のレビュー・感想・評価

4.0
少し前に、娘のちょっとした言葉遣いが原因で、彼女に対して怒ってしまったことが思い起こされる。

"叱る"と"怒る"は違うとよく言われます。親は子供を"叱る"べきであり、"怒る"べきではないと。
理屈は痛いほど分かっていても、感情を完全に制すのは言葉ほど簡単ではなく、どうしようもない後悔と自責の念に苛まれる事、少なくありません。

6歳ともなると自尊心が芽生え始め、素直に謝らない事も増えてくるため、親子で牽制しあう事もしばしば。
拗ねて後ろを向く娘の背中を見て考えるのは、子供の目に僕はどう映ったのかという事。大人の放つ言葉と言うのは、子供にとってどれほどに絶対的で、経験少ない真新しい白紙に刻み込まれるかという事。親の主張が常識的に正しいかどうかなど、この際どちらでも良い。

だから、後悔と反省が途絶える事も無い。
育児は綺麗事に収まらないとは僕自身も過去に述べた事。

そんな不甲斐ない父親である僕にとって、
身につまされる話であり、救われる話であり、そして希望の光をさす話。

僕だけでない、全ての親御さんに、
「自分の事」として観てもらいたい作品。


児童虐待問題が大々的に取り沙汰されるようになって久しい昨今、ここまで過激な内容を隠さず投じてくれた事には感謝しかない。
劇中でくどいほどに描かれる、肉体的・精神的な暴力は、主人公「タイジ」の目線でみた壮絶な光景そのまま。敢えて自分の事を「豚」と卑下して笑う事で、自身を傷つける言動への予防接種にするしかない子供の姿は、あまりに痛々しい。

優しさに溢れる「ばあちゃん」と、毒舌家ながら暖かい「キミツ」の存在が、彼を生涯の孤独から救う。
"嫌な奴"として軽口の毒を吐く「キミツ」も、観ている側からすれば出会いの時点で"良い奴"の気配がまるで隠せていないのだけれど、その事に全く気付かない「タイジ」が、いかに他者を疑い、自分を疑っているのかも見て取れる。

この物語の苦しくも眩しいところは、
母親が能動的に歩み寄る描写は無く、すべて子供が行動を起こすという点。

「キミツ」が「タイジ」に送った言葉、「理解は、気づいたほうからすべし」が胸にささる。
虐待が連鎖する哀しい事例が、この世にどれだけ蔓延っているのかは分からないけれど、本作はその氷山の一角。母親はその連鎖を断ち切る事は出来なかった。それでも、理解に気付いた「タイジ」が涙ながらに這いつくばる姿、呪いを解こうとする姿が、あまりにも、目頭を熱くさせる。

度重なる虐待の果てに、自分を卑下して何層にも重ねてしまった殻。それを「僕は豚じゃない」と、自分の声で破っていく姿に、自分でも信じられない程に涙が溢れた。
愛情を育むのは親からとは限らない。気づいたほうから行動を起こす事で結わえる絆もあるのだと、まばゆい希望を見た。


・・・そして、冒頭に述べた僕自身の体験が蘇り、符合する。


子供部屋に籠ってしまった娘に、どう声をかけるべきか僕は悩んでいました。
まごついている僕より先に、部屋から出てきたのは娘のほうで、その手にはお絵かきボードが握られていました。
そこには、まだまだ覚えたての拙い字で、大きくこう書かれていました。


 ごめんねパパ
 だいすきだよ


はじかれるように、反射的に強く抱きしめた僕の腕の中で娘は少し泣いていた。
愛する娘を泣かせた事を強く悔やむ気持ちと、不甲斐ない父親に歩み寄ってくれる優しさに喜ぶ気持ち。心がいっぱいで、この期に及んで何と声をかければいいのか分からない僕は、しきりに「ごめんね」と「ありがとう」を繰り返し、クシャクシャに娘の髪の毛を撫ぜ、濡らすばかり。


本作で描かれている凄惨な虐待や、最悪の事態を招いた時事ニュースを眺め、「現実離れした他人事だ」と傍観してはならないと自身を律する。正しい事を言葉で放つ「行動」が正しいとは限らない。極端な暴力に及ばないだけで免罪符とはならない。子供の視界にどう刻み込まれるかが大切なのだから。

こんな僕に、娘が寄り添ってくれる幸福を噛みしめる。
「理解は、気づいたほうからすべし」
今度は、僕が気づく番にならなくては。

そんな、
身につまされる話であり、救われる話であり、そして希望の光をさす話。
海老

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