ナガエ

教誨師のナガエのレビュー・感想・評価

教誨師(2018年製作の映画)
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映画の中である人物が、教誨師に対して議論を吹っかける。
ざっくり説明すると、こういう内容だ。

ベジタリアンではないならば、豚も牛も食べている。「死んでいい命なんてない」という主張が正しいなら、何故豚や牛はいいのか。そして何故イルカはダメなのか。教誨師が、「イルカは知能が高いですからね」と言うと、相手はニヤリと笑い、「だったら僕と同じ考えですね」と返す。何故なら、教誨師のその返答は、「知能が高ければ生きていてよくて、低ければ殺していい」という主張とも受け取れるからだ。教誨師は、「人間は違う」と反論するが、しかし相手は、「だったら死刑は?」と返すと、教誨師は答えられなくなってしまう。

この映画の中で、僕にとってはかなり印象的なシーンだった。

この議論を吹っかけた高宮という男は、17人もの人間の命を奪った。彼は、「社会を良くするために、知能の低い人間を殺した」と主張し、それを正義だと考えている。彼の立場に立つとすれば、確かに上記のような議論をしたくなるだろうし、それに教誨師が答えられなかったことを、自らの勝利と考えただろう。

僕は、誤解されるのを承知で書くが、高宮を見ていて、自分みたいだな、と思っていた。

これは、「高宮の考え方に共感した」という意味ではない。僕はさすがに、「知能が低い人間は殺されて当然」なんて思わないし、それを実行することもない。ただ、豚や牛を食べている、から始まる議論だけ見れば、僕は高宮側についてしまうと思う。僕自身は、「知能が高ければ生きていてよくて、低ければ殺していい」とは思っていないのだけど、しかし実際的に、豚や牛は良くてイルカや犬はダメ、という社会を受け入れているわけだし、そういう生き方に対して、「知能が高ければ生きていてよくて、低ければ殺していい」という考え方を、意識的にせよ無意識的にせよ持っているんだろう、と追及されれば、反論できないな、と考えてしまう。いずれにしても、自分の身勝手な理由で人を殺めるという選択をした高宮に同情や弁解の余地はないが、しかし、彼が考えていることに明確に対抗する理屈は僕にはないなと思えてしまうし、殺人という行動を実行に移さないのであれば、彼のような考え方を否定する権利は誰にもないかもしれない、と考えてしまった。

また、僕が高宮に共感した理由はもう一つある。というかこちらの方が要素としては強い。それは、「何らかの理由で僕が確定死刑囚になったら、教誨師に対してああいう態度を取りうるのではないか」ということだ。

僕がどんな理由で死刑確定囚になったかにもよるだろうが、社会に対する何らかの鬱屈みたいなものが発露された結果だとすれば、僕もきっと高宮のように、誰彼構わず議論を吹っかけては勝ち誇ったような顔をするような人間になるのではないか、という気がする。なんかそういう意味でも、凄く自分に近いような気がしたのだ。

高宮がこんなことを言う場面がある。

【刑務所で一番されちゃ困ることは、自殺。だから一番大事なことは「心情の安定」なんだって。でも、何年もこんなところで閉じ込められてたら、そりゃ気も狂うって】

自らの行いのせいで閉じ込められる結果になったのだ、というそもそもの話は脇に置くとして、言っていることだけ見れば、まあそうだよねと思った。この映画で描き出される死刑確定囚たちは、何らかの形で「死刑制度の矛盾」を体現しているように感じられるが、言葉でそれをやろうとしているのが高宮だと思う。そういう矛盾がほったらかしにされている、という現状に対しては、「誰も俺たちのことを知らないんだから判断しようがない」と考えており、まさにそれは観客に突きつけられた刃だと感じた。

内容に入ろうと思います。
死刑が確定した者は、刑務所ではなく拘置所の独房で生活をする。彼らにとっては「死刑の執行」こそが刑であり、執行を待つ過程は刑ではない、という判断だろう。だからこそ彼らは、服装なども自由だし、就労の義務もない。しかし、会える人間は制限されている。その制限された者の中に、教誨師と呼ばれる、キリスト教の牧師がいる。
佐伯保は、教誨師になってまだ半年の新人である。彼は6人の死刑確定囚を担当している。基本的には、「牧師による教誨を受けたい」という希望したものとやり取りをすることになるが、面談のあり方は様々だ。一切話をせずに黙り込む者、自分の話ばかりひたすらする者、聖書をそれなりに学ぼうとする者、聖書には興味がない者。「心を入れかえて安らかに死んで欲しいのはあんたらの方だろ」と突きつけられてしまう、死ぬことが確定したものの心を安らかにするという矛盾した役回りの中で、佐伯は出来るだけ聖書の教えを届け、限られた生に寄り添おうとする。
やがてある者に、死刑の執行命令が下され…。
というような話です。

全編、ほぼ教誨を行う部屋だけで展開される映画で、主要な登場人物も限られている。場面展開がほとんどなく、登場人物の服装もそこまで変わらないような、映像的には本当にさしたる変化がない感じですが、じわじわと何かが染み込んでくるような感じの映画で、とても良かったです。

6人の死刑確定囚が、実に個性的でした。彼らが何故死刑に至ったのかという説明は基本的にはなされず、教誨師との対話の中で推測する感じになります。それは佐伯保という教誨師についても同じで、彼がどんな人物であるのかということも、教誨が行われる過程で明らかになっていきます。彼らが一体何を抱えているのか、どんな性格の人物なのかという基本的な情報を欠いたまま話が進んでいくので、最初は本当に何も分からないままですが、徐々に明らかになっていく過程で、最初の印象が覆っていくという流れがうまいなと思いました。

特に印象的だったのが、最初一切喋られなかった男です。彼の罪状なんかは、もちろんあくまでも想像でしかないのだけど、しかし映画を見ながら誰もが推測出来るだろうし、徐々に描かれていくことになる「狂気」には、ちょっと驚きました。

一方でとても人間臭いのは、元ヤクザの男でしょう。彼の振る舞いからは、人間が弱さを隠そうとする業みたいなものを感じました。

しかし一番印象的だったのは、やはり高宮です。他の人物たちは、例えば「独房に閉じ込めておいてもまったく意味がないと感じさせる振る舞い」をすることで、あるいは「死刑に処されるべきではない人が独房に入ってしまっているという過誤」などによって、「死刑制度の矛盾」みたいなものを間接的に表現する存在だと僕は感じましたけど、高宮だけは論理でそれをあぶり出そうとしていて、やはり言葉や論理の方に関心がある僕としては、高宮のあり方がかなり気になりました。

僕らは日常的には「死刑」のことについて考えることはありません。しかし、先進国で死刑制度を採用しているのは日本とアメリカだけ、みたいな話もあったりします。国家が人間の命を奪う、ということの是非について、僕らは「当たり前だ」と思っているが故に、あるいは自分には関係ないと思っているが故に、議論にもならないことが多いでしょう。しかし、物語という形でこんな風に「死刑制度の矛盾」を突きつけられる時、返す言葉がない自分というのもまた嫌だな、と思います。いずれ高宮みたいな人間に議論を吹っかけられても大丈夫なように、時々考えてみたいかなと思います。
ナガエ

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