持て余す

翔んで埼玉の持て余すのレビュー・感想・評価

翔んで埼玉(2018年製作の映画)
4.1
既に80年代には「ださいたま」という表現があったのだそうだ。これは勿論、「ダサい」と「埼玉」を掛け合わせた造語で、©︎はタモリ(ダ埼玉にはWikiがある!)なのだそうな。なまじ東京の、しかも23区に隣接しているせいで揶揄われる対象になるとは、なんとも不憫でならないけれど、一部の県民の振る舞いがこれを促進しているのも確かだ。

正直、何代も続いている「東京の人間」は、東京が地元なのだからちょっと出かける程度で着飾ったり、流行りに乗らない人が多い。上京組や近隣育ちは「東京」に構えるから、「流行り物」に敏感だったりする。これが却って「ダサく」映るのだと思う。エビデンスを求められても困るのだけど、周囲の人間を観測した限りではこの傾向が強い。

80年代には揶揄う言葉ができているということは、それよりももっと前から、そうした認識はされていた筈で、原作の漫画も80年代の前半には発表されている。それがすっかり醸成された結果がこの映画なのでしょう。それにしても素晴らしく馬鹿馬鹿しい。

こうした都会と近郊という構図はなにも東京と埼玉に限った話ではなく、大阪の周りにだってあるだろうし、名古屋(愛知ではない)だったり福岡だったりにだって規模は違えどあると思う。そして、この映画は海外の人にも(海外でも系の話はどこまで本当か判らないけど)受けているのだそうで、つまりは普遍的な話なのでしょう。

そういう普遍的なあるある話を大袈裟にやったおもしろ映画──なのだけど、大袈裟だけに留まらないはみ出し方をしている。

なんと言っても二階堂ふみ。原作の設定は知らないけれど、GacktとBLっぽい雰囲気を出している青年を女性が演じるねじれ構造。そして、このヘンテコな役どころを二階堂ふみが堂々と演じている。他のキャストの熱演も素晴らしかった。

映画に限らずコメディものって、作り手が馬鹿馬鹿しさに甘えて雑な作りになっていることが少なくないし、そうした態度が見えるとものすごく醒める。ところが、この破格に馬鹿馬鹿しい映画にはそうしたところがない。与太話には違いないし、行き過ぎればただの侮辱(揶揄ってはいるけれど)に堕するところをバランス良く仕上げている。

これを支えているのが現在パートの親子だ。このパートだって大袈裟だし与太ではあるものの、「あれは過剰に言っている伝説なのです」と明快にしてくれている。あの親子のリアル感は大切で繊細さのある要素だ。

このパートがあるとないとでは、全体の雰囲気がまるで違ってしまう。それこそ馬鹿馬鹿しいドタバタ劇に留まってしまうところを、一段違う作品に底上げされている。この車中のシーンは映画オリジナルの要素らしいので、この監督や脚本家のバランス感覚の勝利だと思う。

と思ってこの──武内英樹監督(千葉出身)のこれまでの作品リストを見てみたら、他作品もこの優れたバランス感覚なくしては“くだらない”作品になってしまいそうなところを、素敵な娯楽映画に仕上げる能力が高いことがよく判る。

いやー、面白かったです。
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